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理想的な「先生」や「上司」の条件とは?【実証済】

私自身「先生」と呼ばれるお仕事の機会に恵まれ、

現在、若いながらに「上に立つ」ことを任された責任を強く感じながら

全力で表現しているところです。

 

先生と言っても、いわゆる「医師」や「士業」のような先生ではなく

塾の先生です。学習がメインとなります。

 

宅建合格をしているので、そこを足掛かりにFP系のコンサルとして

そういう「先生」になれなくもないですが今は考えていません。

 

あくまで私は塾での「先生」ですので一般に言う

会社の「上司」の立場では違うと思われる方もいるかもしれませんが、

私はそうは考えてはいません。

ここで「いや、違うだろ…」と一蹴するような人間は

そもそもそういった思考を研ぎ澄ます習慣がない人でしょうが…

 

つまり、

「人を導く立場」にある者としてどのような思考をし、

どのようなことを魅せていくか(漢字は間違えていません)

という心掛けについて紹介していきます。

もちろん、これと相対する考え方もあるでしょう。

一つの参考としていただけたら幸いです。

 

以下は私が塾でお世話になるようになって約1ヶ月になる頃の記録です。

週に1回1コマの予定で契約書も交わしましたが、

結局1回1~3コマで週3~4回ほどお願いされています。

(人が足りているので週1回しか割り当てられないかもしれない、

という意味で契約し了承していたのですが

むしろ私は「教育」に関わりたいのでたくさん携われてとても幸せです。

違反とかは考えていませんしどうでもいいです。)

 

執筆時、1ヶ月で28コマ、15人担当して(個別指導です)

内10人から「楽しかった」「分かりやすかった」という

「学習の教え方」に関する部分にその場で評価を受けただけでなく、

「初めて塾に来て楽しいと思った」

「初めて勉強ってこんなに面白かったんだって知りました」

といった「意識」の変革に関して喜んでくれた方もいました。

 

この10人の内3人は、私が初めて担当させていただいたにもかかわらず

「先生と出会えてよかったです」

「人生が変わりました」

「もっとお話を聞きたかったです」

と言って、私が担当したその日のうちに教室長に

「これからは今日担当してくれた先生に替えてください」

という旨を伝えてくれていたようです。

これは後で教室長から聞いて知りました。

 

数としてはあなたはどう思うでしょうか?

私は結構多いと思うのですが…?

 

 

いずれも、

私自身が「どうだった?」と感想を聞いたわけでもなく、

「良かったら教室長に今日の先生良かったって伝えてね」と

お願いしたわけではないというところが重要なところです。

みんな自発的に動いて、人生を変えようとしてくれています。

 

私としては、

「関わった全ての人たちに影響を与える!!」というつもりで一生懸命に向き合ったので

反応を特にしなかった5人からもいずれ認めていただけるように

ひたむきに当たっていきたいと考えています。

もちろんこれから関わることになる人たちにも、です。

①知識と経験がものを言う。しかし知識が人を惹きつける。

「量と質」や「知識と経験」のように

どちらがより重要かと議論されるものはこの他にもたくさんあります。

両方やれたら…というのは気持ちとしてはわかります。

「量と質」に関しては、私が中学生の時は「質」でした。

「質が伴ってこそ」という考え方強かったのです。

これは、高校1年生の頃も続きましたがその頃は「量の重要さ」にも気づき始めていたので

「量と質」の両方を追い求めます。

やや質強めで、です。

 

それ以降は圧倒的に「量」が大事と考えるようになりました。

成長と共に「質」が伴うようになった、という可能性はもちろん捨ててはいけませんが。

 

「知識と経験」に関しては、

最初は「知識」、そして「経験」と考え方が変化し、

最終的には「知識」で落ち着きました。

もちろん人生を歩む上でまた変わっていくこともあるかもしれませんし、

これも上と同じく成長と共に「経験」が伴ったとも言えます。

しかし、今段階では「知識」が全てと考え直すようになりました。

 

トライアンドエラーが意味するところの

エラーにフォーカスした部分が

質と量の「量」、

知識と経験の「経験」

なのだと思います。

 

“知識と経験がものを言う。しかし知識が人を惹きつける”

と題を打っていますが、ここが解釈するところは次の通りです。

 

“知識と経験の両方が必要なことは言うまでもない。

しかし、「立派に見える人」が立派に見えている理由は

知識の他に様々な「経験」をしているからである。

しかし、これは事実であって真実ではない。

正しくは「経験」がその人の存在を包んで隠してくれているから

立派に見えているのである。

真に人を引き連れるのに必要なものは洗練された知識である。“

 

(ちなみに、最後の一文「人を引き連れる」に由来する土台的考えは

give&takeやgive&giveは自分と相手を幸せにする最適な方法ではないかもしれない話

から来ています。)

 

 

「経験は宝だ」と言いますが、

私から言わせれば、経験とは「ふたの開いた宝箱」「温めたのに冷まったお湯」と一緒です。

行動して経験を得ようとする姿勢が大事であるのが顕著なのは学ぶ側の姿勢なのであって、

「教えを授ける側」が「経験しないと!!」「まずは即行動!!」という姿勢は非効率的です。

 

上に立つ者が「経験が大事!!」と言うことは、

表現としてふわっとしすぎなのです。

ある物事に対して「その」経験が大事!!と言えるのはなぜでしょうか?

それはその経験を身をもってしていて、

その大切さを痛感しているからなはずです。

痛感しているのであればこそ、

その経験をそのまま自分と同じように追体験させてはいけないのです。

それは、導く立場として怠慢です。

完成された「体験系」が結果として「追体験」という形になるのであれば良いですが、

重要なことは、先に自分が体験したことは、

より深く考察し、聞かれた時にそこに飛び込みたくなるような

輝きを感じさせる素晴らしい表現ができてなければならないということです。

体験を考察し、洗練された知識に落とし込み、表現するのです。

 

 

もう一度出しますが、

知識と経験の両方が必要なことは言うまでもない。

しかし、「立派に見える人」が立派に見えている理由は

知識の他に様々な「経験」をしているからである。

しかし、これは事実であって真実ではない。

正しくは「経験」がその人の存在を包んで隠してくれているから

立派に見えているのである。

真に人を引き連れるのに必要なものは洗練された知識である。

 

というのは、経験を洗練された知識にしている人の場合は以下のようになります。

知識と経験の両方が必要なことは言うまでもない。

しかし、「立派に見える人」が立派に見えている理由は

知識の他に様々な「経験」をしているからである。

しかし、これは事実であって真実ではない。

正しくは「経験」がその人の存在を包んで隠してくれているから

立派に見えているのである。

 

「真に」立派だと「感じる」人が目の前にいる時、

経験という表面を覆う霞でかくされているのではなく、

その経験さえを裏打ちにして洗練された知識がその存在ににじみ出ている。

だからこそ、真に人を引き連れるのに必要なものは洗練された知識である。

 

私は「教えを授ける側」は「教えを乞う側」から

聞かれたり頼まれたりしたことはどんな状況でも

1秒後には答えられるべきだと考えています。

 

それができるから上に立つ「上司」になれるのであって

教えを授けることができる「先生」になれるのだと思います。

②謙虚に熱狂し、常に本質を覗くよう心掛ける。

便宜上「生徒」や「先生」といった言葉を使っていますが、

私自身生徒は「生徒」ではなく「一人の独立した個」として

向き合っています。

今までかかわらせていただいた生徒には

・あなたにできないことはない

・あなたの人生は誰のものなのかを考える

・あなたが今後ついていくべき人間は、あなた自身で判断することができる

・あなたがやろうと挑戦したことに対して

「できない」「やめとけ」と否定してくる人間はあなたの挑戦に必要のない人

・「先生」は必ずしも「先生」でなく、あなたの先生はあなたが望むタイミングで現れる

・あなたに短所という言葉は似合わない

 

という趣旨のことはお話させてもらっています。

 

そして、

知識であったり、できることであったりは、

より多くの年を重ねている分できるのが当たり前です。

そこに頼りきることは、経験に溺れていることと同じです。

順番は前後しますが、

常に本質を意識します。

これは人に対しても同じです。

塾では生徒に対して、会社では部下に対して、

一人の人間として、自分と同等もしくはそれ以上の存在のつもりで

熱い視線と期待をむけて「個」を注視します。

 

いろいろな特性を感じ取ってからも、決して上から指示することはありません。

これは気の持ち方の話です。

 

すべてに対して、謙虚に向き合います。

導く立場が謙虚でなければ、

それが周りに感染して何も利益が出ないからです。

 

謙虚を意識したところで熱狂を魅せます。

しかし、静かに謙虚に、です。

 

謙虚に熱狂する理由はエネルギーが溢れ出す様式として最も効果的だからです。

 

熱意を表面立って見せることは押し付けと変わりません。

自主的に変わろうとする対象には、

メラメラと溢れ出すエネルギーがメッセージとして届く方が

最もその人の芯に刺さります。

 

③「教えを授ける側」は必然的に「授けられる側」に超えられる可能性を秘めていると知る。

これは文章のままの意味です。

別の表現にするとしたら、

教え子や部下といった周りの人がどんどん自分を能力的に越えていくことを

受容し続ける体力を持つ必要があるということです。

 

ちなみに私はこの現象は生物濃縮に似ていると思っているですよ。

時代の加速度やテクノロジーの恩恵、

人類の哲学的習熟を考慮すると当たり前のことなのですが

あまりに多くの人が気づいていないことのように思います。

後世の人たちほど、情報過多な代わりに良質な情報や手段を獲得できるのです。

よって、自然と私たちが過ごした幼少期とは異質なレベルで生活様式が変わります。

そして生活様式が変われば環境が変わるので、思考習慣も当然進化します。

 

非常に高級な思考習慣ではあるが”まだ卵”である人に対し、

「自分が上に立ち導く」とすれば、あっという間に成長していきます。

自分より優秀な人材がすぐ目の前に現れるのです。

そして何度も言いますが必然です。

 

ただ、そういうことが可能性として秘められている

ということを知っておくべき話であるだけなのであって、

最重要であるのは、謙虚に、負けるつもりはないと思い実践をし続ける姿勢です。

 

すべてが学びの対象です。

人生は一人一つしか所有できません。

私は生徒という一人の「人」の所有する人生から得られる

教訓や学びを日々体験させていただいています。

そして、体験を知識として精製します。

 

 

実はまだまだあるのですが、

長くなりすぎるのでまたの機会に(‘ω’)ノ

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