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給特法の特殊性などどうでもよい。信念ある教師が増えることを期待する。

先日後輩とお話させていただく機会があった。

その中で「もし記事中で僕のこと出すというのであれば全く問題ないので。

むしろあの時の話でそういう風に考えていたのかーと参考になるので。」

と言ってくれた。

もちろんいたずらに名前などは出さないよう気を付けます、と言っておいた。

※彼は私がブログをやっていることを知っている。

 

ということで早速それを書き記していこうと思う。

怒られないであろう最低限の情報を出すと

東北大学の非教育系学部だったのに教育熱心かつ

教育に使命感と信念を持っている珍しい人種だ。

私も教育に対し常に思うところがあり、この手の話題はよく話に挙がる。

リモート勉強会的な様相でお互いを各端末で映し

各自の作業をやりつつ6時間が過ぎたであろう頃、進捗報告も含めて少し雑談に入った。

 

その発言の中で彼の言った「人間として劣化していく」という言葉が純粋に

私は「いいなぁ」と思ったので近くの付箋に

「今のいいですねぇ…忘れないようメモしときます」と近くにあった付箋に殴り書いていると

「偉いですね、メモするって」と彼は言った。

私はそれに対し年を重ねると心動く言葉、心に響く言葉というのが段々と減って、

その閾値が上がり感度が鈍くなってくるというような趣旨を話した。

もちろん、当時はもっと平易な表現であったが。

 

余談であるが賢い人達と話すと

よく微妙な表現やニュアンスという点を大事にしてくれている傾向があり、

「大切そう」な点がもう一度話題に取り上げられた時

(バックトラッキング;オウム返しで「○○なんです」「へぇー○○なんですか」となる場合など)、本当に伝えたかった感覚に近い言葉に言い直してくれる。

これはこういう人達特有の美点だと思う。

彼はこのくだりで「劣化していく…退化していくかもしれないなぁ」と言い直してくれたわけである。

 

ちなみに私は21歳の時に”進化”・”退化”という言葉の閾値はもう卒業済みだったので、

この会話上でもし彼が「人間として退化する」と述べていたとしたら

メモすることはなかったに違いない。

私は「ノートとり」「保存」を意味するメモはしない。

脳容量節約のために一時的に利用しているだけで、

なるべく早く内容をアウトプットまたは記憶を所定の「ゴミ捨て場」においたら

メモは物理的なゴミ箱に捨てる。

間違ったメモ文化は早く滅んでほしいと思っている。

 

話は戻るが上記で”心動く言葉、心に響く言葉というのが段々と減って、その閾値が上がり感度が鈍くなってくる”ということを話したとき私はこうも付け加えた。

 

「準備していくことって大切だと思うんですよね。」

 

この時は教育的な話まで広げなかったが、実際はこの言葉には私の教育的な思想が混じっていた。

彼が参考にしたり知りたいと思ったりするのはこういう部分だろうと思うので

そこを深掘りしていくことにする。

初等教育ではよく進路選択と称して「将来何をしたいか」について子供たちに問う。

しかし現状でそれを強行するのは私は順番に矛盾があると考えている。

もう少し近い表現をすればそれを問う大人側の思慮が欠けていると思っている。

 

というのも、憲法に定める教育を受けさせる義務のようにあくまで「教育の機会」が大事であることは常々認識されているが内容が今の時代に即していないことは誰しもが気づいているにも関わらず誰も改革することはない。

もう少し簡単に言えば現教育で行われている「科目」をまた再現したいという先生しか大学課程で発生しずらいまたはそれに疑問を呈することなく当たり前に科目のみを究めた先生が現れるという構造があるということである。

 

当然であるが科目を究めた先生が必要なくなるわけでなく、むしろ究めた人材は宝である。

そして同じく当然であるはずなのだが、

究める選択ができたのはその基礎部分を学んで深めたからこそである。

 

つまりここで言いたいこととは、

科目以外も重点的に鍛え上げていない子供に「将来何をしたいか」を迫るのは、

基礎を学ぶことを取り上げられたにも関わらず

高レベルの専門研究を強いられているようなものであるという点である。

 

順番に矛盾があると述べたのはこのような理由からであるが、

言い換えれば「将来何をしたいか」を尋ねるのであれば、

その選択を自らの意志で心から決めたいと信じたタイミングでなければならず、

またその土台となる背景的知識やその想像による実践を通してのみ

ようやく直感が機能したと言えるのではないかと思えてならないわけである。

もちろん「その機会を与えるための第一歩としての問いかけなのではないか」

というのはここではナンセンスである。

 

現場でどうにか教育的問題点を解決したい熱心な人がいることは間違いないが、

大きな組織に捕らわれどうともし難いことは理解するし同情もする。

現場で99%無理でも1%の達成に入り込もうとしないまたは

その結果を無理やりにでも引き出そうとしないのは仕事人として怠慢である。

 

要するに個性を拡充拡大する教育の心的実践なくして

将来何をすべきかを選択させるのは、真の意味でその人が判断したと言えず、

我々大人がその点を考慮せずに急に何をしたいか尋ねるのは

非常に他人任せの指示であり、私からすればもはやそれは教育とは呼べない。

 

他言語を学ぶと言葉とは

そこに芯を待ちながらとても柔軟で広がりの深いものであると理解できるときがある。

本来翻訳という作業は(デジタルの世界ではとても分かりやすいかもしれないが)

ほぼ必ず欠落が生じる。規格の違う者同士をコンバートするときに

一部データが失われたり、様々なものにおいて熱エネルギーが損失するのに似ている。

 

我々日本人がよく学ぶ他言語である英語について覗いてみると、

例えば「教育する」は「educate」で与えられる。

日本語で「教育する」を味わうと「教え、育む」と捉える人が大多数であろうと思う。

※「教えられ、育ててもらう」と捉える人は(特に成人済では)稀であると感じる。

 

実際、英語のeducateではe(外へ)+duce(引く(導く))が元である通り、

英語における教育の語感は「内在的部分を引き出す」という価値観が

根本にあるわけである。

そうすると日本の「教え、育む」ではちょうどベクトルが逆であると言えそうである。

最後に批判の嵐が巻き起こりそうな主観をおまけとして少し。

 

教育の現場で賃金問題に文句を呈する当人は即刻現場を降りるべきである。

(ロクな信念も持たず、生活のために教員になるような人間は

信念ある人間に席を譲った方がいいということ。)

 

よく3度の飯より…という例えがあるが教育好きな私からすれば金より教育なわけであり、

太古の昔に無報酬で「教師」をやっていた崇高なる人々がいた時とは違い

現在は報酬が「出ている(それも日本インフラに対応できるほど)」のであるから

文句を言う理由がない。

 

賃金問題は時代柄ある意味では解決すべき事案ではあることも理解しているが、

昨今取り上げられる給特法の適用がある1971より前に教員になった人かつ

公立勤務の現役教員以外は文句が言える立場ではないと思っている。

なぜならそれより前に教員になった人の中には当時の法をもとに

「お金と時間」を考慮に入れた教養を伸ばす生活を計画していた人もいた可能性があり、それは考慮してもよいはずである。

しかしそれよりも後になった人はこの事実を

「わかっていた」はずなのになった人達なのであるから文句を言うべきでない。

知らないでなったのはただの勉強不足である。

扱いが公務員であり副業による規定も厳しいのが想像つくのであるから、

どうしても拝金思考が抜けないのに教育に信念があるなら

お金をしっかり稼いでから教育に携わればよい。

 

そもそも上で述べたようにお金>教育の人は教育に向いていない。

給特法の根拠の「特殊性」など、根拠にもならない。

どこまでも教育にこだわっていけば物理的に時間がかかる。

そして妥協した教育など死んでいるも同然なのだから、

そのようなものは与えてはいけない。

こう考えてくると教師は本質的に与え続ける活動の中では、

自身に見返り(給特法に文句を言う現役教師大半が求めている見返りはお金)を

求めているうちは生徒の成長という一番の見返りを得られず生きていくことになる。

 

教育における無報酬とは

現代で言うサービス残業とは違う性質をもった

高い倫理観を持ち合わせたものであると理解すべきである。

 

また思考はcriticalでいて他者に対しては全面的にtolerantな人が集まる、

そして本来は不可能である”utopiaを具現化した環境”が教育現場なのだと

胸を張って言えなければならないのではないかと思えてならないわけである。

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