twitterを始めました‼

授業はプリントと板書どちらであるべきか?

最初に軽く説明をはさませていただくと、先日から私は後輩と朝一から連絡をさせていただいている。ブログ他記事でも登場していた東北大学(院)生だった人のことである。

後輩との語らい
今回綴ることは完全に日記の類です。 付き合ってくれる方だけお読みください。 今日、中学校の時の先輩に連れられ、 先輩と後輩と私の3人で色々回りました。 当時の部活仲間です。 私は初詣というものは...

お互い最近の生活ではある意味時間があり、

いろいろあって自己管理をしたいという思いから

偶数日に私から、奇数日は彼から朝に連絡をすることになっている。

そして強制的に目覚ましをして作業を開始するという寸法である。

義務感があればやはり起きられるものだということが日々の実験でわかってきたことである。

 

そして彼との話は「教育」分野に花開くことが多く

了承も得られたこともあり、それから感じたことなどをまとめることにした。

かなり続きそうな気がするので、今後当ブログで彼の登場した回から

シリーズものとしてまとめていこうかと考えている。

今後見返してみていくと、

私や彼の気持ち・考えが変わっていることも多々あると思う。

しかしその時系列と記憶の保存という役割として

そのままの形で残すという方向で尊重していこうと思う。

それでは本題に戻っていく。

きっかけが全てを決める。しかしきっかけは全てあなたが決める。
きっかけとはどこにでも存在しているが、不可視かつ神出鬼没である 生き方は人それぞれですが どんな信念を胸に生きていくかというのは難しいものです。 感情が方向性を左右してしまうことも多いので 自分自身の生き方を事あるごとに...

“授業はプリントと板書どちらであるべきか”

最初からこのことを話していたわけではなかったが、

しばらくしてこの内容が台頭してきた。させたのは私だった気もするが。

早速私は疑問点をぶつけることにした。

 

「我々が高校生だった時、プリントを配布していた先生がいましたよね?あと、ノート提出などもありました。そういうものはありましたか?」

「いましたね。」

「実際自分で授業するときになったとしたら、そういったプリント類って配布するんでしょうかね?プリント類は高校生の時どういう風に思っていました?」

「すべてのプリントを否定する気はないし、場合によっては良い使い方もありますよね。ただ、穴埋めのプリントとかは大嫌いでしたね。」

「同感です。私も大嫌いでした。」

 

私の肌感覚ではあるが、

周りの友人もプリントというものを快く思っていた人はいなかったと記憶している。

しかしながら先に“授業はプリントと板書どちらであるべきか”について

「どちらでもいいんじゃない?むしろその2つに頭を固定するのもよくないかもね。」

と前置きしたうえであえて2つから選べと言われたら板書優勢かなーと思うわけで、

ただ逆にプリントに内容がとても魅力的かつまとまっていると思われる

最高のものを提供するならばそれを渡して質問があったら答える、

なければ終わりということもできる。

これはある側面から見れば自学自習しているのと同じなわけで、

自学自習はできる人にとってはとても効率の良いものである。

よくこういう例が上がると、

教師の仕事がなくなるだの教師の意味がないだのの話になるが

それを喜ばしい事態だと捉えることはできないのかと思ってしまうし、

逆に言えば本当に仕事がない状態にしてしまっているならば

それは教師の方に問題がある。

生徒の時間が止まり、学びが止まっている状態を許容していることを示唆している。

 

こうした場面や前提を限定されていない二者択一の質問というのは

私の一番嫌いなタイプである。

なぜならお察しの通り「場合によるでしょ」というのがわかりきっているからだ。

 

ただそんなことを言っていればなんの実りもない記事で終わってしまうので、

上記で「板書もプリントもどっちもいいよね」といったところで、

私だったらどう展開していくかのが理想だろうかということを記していく。

ということで、そもそも教育の「授け方」という面からの理想を語るために

教育の発信方向について述べていく。

なお、ここまで読んでくださった方はわかっていると思うが

ここで書かれていることは本当に私の主観に過ぎないわけで、

ある種エンターテインメントと思って真に受けないでね、と保身の文を追記しておく。

 

彼はお話の中で

「板書のデメリットとして、止まってしまうというところがあると思うんです」

という発言をし、

「書かせる時間を取るとその分と止まってしまうじゃないですか」

と説明してくれた。

なるほどな、と私も思った。

 

私は中学浪人をしていたのだが、この時そのことを想いだした。

私はもともと中学の社会が全くわからず

のちにかろうじて歴史と公民の問題に答えられるようになったくらいで、

地理は全くダメだった。

しかし、せっかく1年勉強するのだからできるようになりたいと思い

最初の地理の授業が始まった時に

義務教育の9年間でかろうじて両手数えられるくらいしかしたことのなかった

予習というものをやり授業に集中して、

そして帰ってからは復習というものをやってみたのだ。

復習に至ってはおそらく片手で数えられるかどうかであった。

当時少年の自分にとっては遊ぶことの方が命をかけるべきものであった。

 

そして、もちろんその予習復習という行動にも原因はあるだろうが

その地理の先生は一言で表すと「智」であり、神だったということもあり

地理はメキメキできるようになった。

間違いなく教育とは何かを考えるきかっけにはなった。

 

実はこのエピソードは今回の件に絡んでいる。

 

地理のまったくわからなかった私が

地理の先生の教育を「何らかの形」で受けたことによって能力が向上したわけだ。

いったい何があったのだろうか?

 

教育の発信方向は単線ではない

私は教育とは大きく2種類に分けることができると考えている。

あくまで「大きく」だ。教育なんてもっと複雑な要素があたり前に存在する。

 

ではどう分けられるかというと、

教師側から生徒側への矢印

生徒側から教師側への矢印

である。詳しく見ていく。

従来から一般の現場で行われている教育は

教師側から生徒側への矢印

の方である。

これは説明するまでもないと思うので省略する。

 

一方、最近は生徒側に話し合いをさせたり、

俗にいう意見を引きだしたりさせる「発問」

を頑張ろうとしていらっしゃる先生方もいるだろうが、

これを生徒側から教師側への矢印と勘違いしている人がいる。

 

私からしてみればこの活動も

教師側から生徒側への矢印

と大差ない。むしろ導き方が下手くそな場合は弊害ですらある可能性ある。

 

教師側から生徒側への矢印

について、教師は生徒に向けて「意識の糸」を単線で放出している。

simple

これは教育熱心な人に多い。

 

たまに複線で出す人もいるが、こういう時は総じて

complex

このように意識の力が分散し弱くなりがちである。

このパターンでは生徒の深層に突き刺さる最高の意識が届かない。

※しかしこういう性質が得意な人はこの方式を基に自分のフィールドで戦えばいいのでそういう意味ではどんな形でも問題ない。

多数の生徒の前で授業をするように「見える」のは「意識の糸」としては連続で生徒に指しまくり絶えず変化させるか、もはや出さずにサボるかのどちらかになる。

もちろん後者では寝る人が続出する。

 

対して生徒の大多数は

中学理科の天気分野に出てきた高気圧の図のように

「興味の糸」は多数強弱を交えながら分岐している。

anticyclone

 

「意識の糸」と「興味の糸」がなんらかの理由でマッチングした時、

真の教育が実現すると私は考えている。

 

「意識の糸」に関しては先生側は当然に出すだけであり、

もともと気持ちが向いているので問題はないが、

「興味の糸」に関しては生徒側が向けてくれなければ

一生マッチングすることはない。片思いの状態というわけだ。

 

こう見てくると「興味の糸」をこちらとマッチングすることを目指そうとすると

こちらも大まかに2つのパターンがあると考えられる。

A「興味の糸」を生徒側から向けていただく

B「興味の糸」を強制的にこちらに向けさせる

B「興味の糸」を強制的にこちらに向けさせる

についてはやや暴力的な表現を使ったが、実は私が目指すのはこちらであり、

教師の1つの在り方であると信じている。

何度も言うようにわざと暴力的な表現を使ったが

もちろん普段は「強制的にさせる」というような

教育の本質である好奇心と相反したことは考えていない。

わかりやすくするための措置だと察していただきたい。

 

B「興味の糸」を強制的にこちらに向けさせる

とは教師側の倫理観・力量・存在力(カリスマ性)・知識・創造力と想像力に大きく依存し

平たく言えばこれを成すには圧倒的な実力を持ってのみ可能であるということである。

この中の何に頼っても良いが

結局はふわふわ分散した「興味の糸」を一瞬で教師側がつかみとり

同時に麻薬を授けて、ダメ押しで瞬間接着剤で自分の「意識の糸」と

くっつけて離さないようにしてしまうのだ。

※しかも旅立ちに必要な糸を切る「ハサミ」はその場で壊す。

旅立ちたい時は自分で無からハサミをつくる必要がある状態にしてしまう。

しかしこちらはハサミを持っている。

 

私は上で言う倫理観・存在力・知識・想像力で

誤魔化しが効いたのでこの方針を取ろうと思った。

実際は

・倫理観(気骨からくる反転的な思想)

・存在力(誤魔化し力)

・知識(深いところまでやりきれないせいで浅くはないけれどもそこそこな知識と、飽き性がゆえにいろいろ手をだして知っている状態)

・想像力(小心者がゆえに幼いころから周りの顔を見て怒っていないか、どんな気持ちかなどを考え続けた結果得た自分の感覚値と相手の感覚値をキャリブレーションする能力)

 

でしかないので、真の実力者に私がこれをやられたら敵わない自信はある。

 

ここでタイトル回収になるわけだが、

"授業はプリントと板書どちらであるべきか"

という提示に対して、

"B「興味の糸」を強制的にこちらに向けさせる"自信や能力がある、

またはそれを目指すという方針を決めた人であれば、

私の答えは板書授業1択である。

 

なぜならこの手の授業はプリントという枠に教育が収まるはずもなく

ライブ性を醸し出す余裕と、教授すべき事項を書きだすための圧倒的スペース不足から

広いフィールドが必要になるからだ。

 

 

本の重要性に気づいている方は良かったらこちらも見てみてください。

⇒⇒⇒厳選書物

 

error:Content is protected !!