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後輩との語らい

今回綴ることは完全に日記の類です。

付き合ってくれる方だけお読みください。

 

今日、中学校の時の先輩に連れられ、

先輩と後輩と私の3人で色々回りました。

当時の部活仲間です。

 

私は初詣というものはほとんど行かない家でした。

今日、少し遅めの初詣に行き、

人生4回目くらいの経験となりました。

 

久しく忘れていたのですが、

神社へ行って「神道(しんとう)」を思い出しました。

私は、自身が生きてきた中で大切にしてきたことや

大切に思うようになったことをよく人に聞くようにしています。

私がよく学ぶようになってから出会った

あるご老人から教えていただいたのですが

この「神道」は非常に重要であると仰っていました。

 

 

「老害」という言葉が存在していることは事実としてはあるのですが、

「表裏一体」という言葉があるように、

長く時を重ねて初めて感じることというのは

年を重ねた人にしかわかり得ないものでしょう。

そして、本質を見続けた人というのは

どの時代においても本当に必要だと思われる存在になっていくのだろうと思います。

何かを成していくためには年齢は意味を成さない一方で、

精神的深みはどうしても年齢の深みに依存する面があるという意味では

年を重ねた方以上に宝となる存在はありません。

 

ところで

先輩は社会人、後輩は東北大学の学生です。

両方とも、私とタイプの違う人間で、

みんなそれぞれ立場や状況が違う面白い組み合わせなのですが、

それぞれが尊重し合い仲良くさせていただいております。

 

今日は午前中で一旦解散するというところで

後輩の方が時間があるということで近くのカフェで少しお話できることになりました。

 

私がこのブログを運営していることは

本当に少数の人しか知らないのですが、

今日彼もその内の一人となりました。

彼はあまりこういう風に

話の登場人物となるのを好むタイプではないと思います。

それにこの記事も見るかもしれないと思うと

私としても少し恥ずかしいものがあるのですが、

まぁとりあえず、後で連絡きたら削除するつもりでいます。

 

それでも今日は学ぶことが多かったのでどうしても書き残しておきたかったのです。

 

 

彼は院試を受け、進学を考えているということでしたが、

就職としてはまだ考えている部分も多いという話でした。

ただ、高校で教えることもできるよう免許状取得のために

教育実習をしに来ることも考えているというお話をしてくれました。

こちらは「保険的意味合いで」とるとのことでしたが、

話の中で私は、影に隠れる教職への想いを感じ取りました。

 

ということで聞いてみたわけですが、

「もし、全ての職において賃金や、労働環境・条件などが一様であるとしたら…」

「…教職を選ぶだろう」

ということでした。

私はこれを「自分の想いの及ぶ害悪が全て排除できるとするならば、

もっともやりたいことは教職である」と解釈しました。

 

 

私がなぜ教職の想いを感じたかというと、

私も「教育」を15歳の時から、そして今でさえ考え続けているからです。

彼は予備校で浪人してから大学生になりました。

時期は違いますが私も予備校に通っていました

現在の彼の意思を形成する核となる部分には、

「間違いなく予備校の先生の影響はある」

と語ってくれています。

 

そして私も予備校で出会った先生の影響は間違いなくあり、

現在を形成する要因になっています。

 

真面目な話、

現在の日本の体制において

子供の人生を左右させるほどの影響力を持つのは

家族を除くと「教師」の存在が強大であると言わざるを得ません。

 

田舎に住む私たちの学校状況は

生まれてからその地方国立大学へ進んで、

そこそこの努力で入り込んでくる余地が残っているという職場になっています。

 

問題なのが「その程度の余地が残っている」ところでなれるものが

先生という立場になれるということです。

 

中流な能力で先生になる人ばかりだとはもちろん思いません。

しかし、その程度の「意欲」の人間が上に立ったところで

恵まれないのは生徒になる子供の方です。

 

さしあたっての問題は篩が荒すぎることです。

あとはそれと矛盾しますが、教師になるための選考基準が狭すぎることです。

 

そして何のための「先生なのか」ということが大事なはずです。

 

何のための受験なのか。

―大学に入るため。

 

では何のために大学へ行くのか。

―就職する場を選べるよう。

 

では何のために働くのか。

―お金を稼ぐために。人と関わって生きるために。

 

では何のためにお金を稼ぐのか。

何のために人と関わって生きる必要があるのか。

―生きるため。一人では生きられないから。人間だから。

 

 

 

今挙げたものは一例に過ぎませんが

一般の人が解答するであろうことを予想したつもりです。

疑問や解答は無数にあり、おそらく正解も無数にあり、

中には正解が容易に決定できるような類のものではないものだってでてくるでしょう。

 

 

こうして見てくると、「教師」とはとても.水準の高い職業であるとわかるはずです。

研究対象としての「専門」や「科目」が全てでないし、

ましてや幸福の価値観が一定でない以上、

教師として「教え」を説く「師」としての最低目標が

生徒個人が納得できる決断をできるよう、

それがその人の「幸福」へ繋がることを信じていくものだとすれば

その個人に合った適切なアドバイスができなければなりません。

 

そしてそれをするためには

上の最終的に行き着く

「どう生きるか」

「なぜ生きるか」

「人間とは何か」

というやや哲学的な答えをある程度持ち合わせていなければなりません。

 

 

時代が変わり、

今後も「学歴」というものが過去程強い力として続かないと想像するのであれば

現在の教師が導くべき対象や方向性も変わっていきます。

 

今日彼と会って、

「もし板書するにしても、教科書にある単語とかではなく、

それ以外の部分や思考の跡を残したい」という内容が印象に残っています。

まさにこれが本質で、

「思考の跡」のように本来直接伝えきれない部分を

丁寧に「教えていける」ことが大切であり、難しい部分なのでしょう。

 

本当にこれからの未来を考えるのであれば、

「教師」を最高職として国でしっかり報酬出せれば一発で変わると思うんですけどね。

…浅はかでしょうか?

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