メタゲノミクス完全ガイド:基礎から最先端まで
1. 語源と定義
1.1 言葉の起源を紐解く
「メタゲノミクス」(metagenomics)という用語は、ギリシャ語の接頭辞「μετά (meta)」と「genomics」の合成語である。
- Meta (μετά): 「超える」「を越えた」「より高次の」「変化」「包括的な」などを意味する接頭辞
- Genomics: ゲノム(genome、生物の遺伝情報全体)を研究する学問
直訳すると「ゲノミクスを超えた学問」あるいは「集合的ゲノム学」といった意味になる。この名称は、個々の生物のゲノムではなく、生態系全体の遺伝的多様性を集合的に研究するというアプローチを反映している。
1.2 公式な定義と変遷
メタゲノミクスは「環境サンプルから直接抽出した遺伝物質を、培養を介さずに分析する研究手法」と定義される。
この用語は1998年、ジョー・ハンドルスマン(Jo Handelsman)らが土壌微生物の研究に関する論文で初めて使用した[1]。当初は「環境ゲノミクス」や「コミュニティゲノミクス」とも呼ばれていたが、2000年代初頭にメタゲノミクスという用語が定着した。
1.3 関連用語のネットワーク
メタゲノミクスは「メタオミクス」と呼ばれる一連の研究手法の一部である:
- メタトランスクリプトミクス: 環境サンプル中の全RNAを研究(遺伝子発現の集合的分析)
- メタプロテオミクス: 環境サンプル中の全タンパク質を研究
- メタメタボロミクス: 環境サンプル中の全代謝産物を研究
- メタインターアクトミクス: 生物間相互作用のネットワークを研究
これらを総合的に活用することで、「誰がいるか」(メタゲノミクス)だけでなく、「何をしているか」(機能)も理解できるようになる。
1.4 異なる学問分野での「メタ」
興味深いことに、「メタ」という接頭辞は様々な学問分野で使われている:
- メタ分析: 複数の研究結果を統合分析する手法
- メタデータ: データに関するデータ
- メタ認知: 自分の思考プロセスについて考える能力
- メタファー: ある概念を別の概念で表現する比喩
いずれも「より高い視点」「包括的な見方」という共通点があり、メタゲノミクスもまた、個々の生物を超えた生態系レベルの包括的な視点を提供する。
2. メタゲノミクスの歴史的発展
2.1 前史:培養の限界との戦い
メタゲノミクスが登場する以前、微生物学は「培養バイアス」という根本的な問題を抱えていた。19世紀末のロベルト・コッホ以来、微生物研究は実験室での培養に依存していたが、1980年代までに「大きな培養の壁」(great plate count anomaly)と呼ばれる現象が認識されるようになった:顕微鏡で観察できる微生物の99%以上が従来の方法では培養できないのだ[2]。
2.2 黎明期:分子生態学の誕生
1980年代、ノーマン・ペース(Norman Pace)らが革新的なアプローチを開発した。環境サンプルから直接DNAを抽出し、16S/18S rRNA遺伝子を標的にしたPCR増幅と配列解析を行うことで、培養せずに微生物を同定できるようになったのだ[3]。これは真のメタゲノミクスではなかったが、重要な先駆けとなった。
2.3 転換点:クローンライブラリーから全ゲノムショットガンへ
1990年代後半に二つの重要な進展があった:
- BAC/フォスミドライブラリーの利用: 大きなDNA断片をクローン化して機能解析する手法の確立
- ショットガンシーケンシング: クレイグ・ベンターらが全ゲノムショットガンシーケンシングを環境サンプルに適用[4]
これにより、特定の遺伝子だけでなく、環境内の全DNA配列の解読が可能になった。
2.4 爆発的発展:次世代シーケンシングの登場
2005年以降、次世代シーケンシング技術の登場がメタゲノミクスに革命をもたらした:
- 454パイロシーケンシング: 初めての商業的次世代シーケンサー
- イルミナ技術: より低コストで大量の配列を生成
- PacBioとNanopore: 長鎖読み取りによる解析の精度向上
これらの技術により、サンプルあたりのシーケンスデータ量は数桁増加し、より深い解析が可能になった。
2.5 主要プロジェクトと重要な発見
メタゲノミクスの発展に貢献した代表的なプロジェクト:
- グローバルオーシャンサンプリング(2004-2006): クレイグ・ベンターらが主導した海洋メタゲノミクスプロジェクト。600万の新規遺伝子と数千の新種を発見[5]
- 人間マイクロバイオームプロジェクト(2007-2016): 人体の様々な部位における微生物群集の包括的解析[6]
- 地球マイクロバイオームプロジェクト(2010-): 世界中の環境サンプルを標準化された方法で分析する国際共同プロジェクト[7]
- TARA Oceans(2009-2013): 世界中の海洋サンプルを収集・分析する大規模プロジェクト[8]
3. 基本概念と方法論
3.1 メタゲノミクス研究の基本ワークフロー
メタゲノミクス研究は通常、以下のステップで行われる:
- サンプリング: 環境サンプル(土壌、水、生体試料など)の収集
- DNA抽出: 環境中の全生物からDNAを抽出
- ライブラリー作成: DNAを断片化し、シーケンス用のライブラリーを準備
- シーケンシング: DNAの塩基配列を大規模に解読
- 品質管理とフィルタリング: 低品質データの除去とノイズ低減
- データ解析:
- 塩基配列のアセンブリ(断片の再構築)
- 遺伝子予測とアノテーション(機能付与)
- 分類学的割り当て(どの生物に由来するか)
- 機能解析(どのような代謝経路や機能があるか)
- データの視覚化と解釈: 結果を意味のある形で表現
3.2 主要な解析アプローチ
メタゲノミクスでは大きく分けて二つのアプローチがある:
3.2.1 配列に基づくアプローチ
- 系統マーカー解析: 16S/18S rRNAなど特定の遺伝子を標的にした系統分類学的解析
- 全メタゲノムショットガン(WMS)シーケンシング: サンプル中の全DNAを無作為に解読する手法
- タンデムマスメタゲノミクス: 多段階のシーケンシングを組み合わせた新手法[9]
3.2.2 機能に基づくアプローチ
- 活性スクリーニング: 特定の機能を持つクローンを直接選別
- 安定同位体プローブ法: 特定の基質を代謝する微生物のDNAを標識して同定
- シングルセルメタゲノミクス: 個々の微生物細胞をソーティングし解析
3.3 サンプリングの重要性と課題
メタゲノミクス研究の成否はサンプリングに大きく依存する:
- 代表性: サンプルが環境の多様性を正確に反映しているか
- 時空間的変動: 季節変化や微小環境の違いを考慮する必要性
- コンタミネーション: 外部DNAの混入防止(特にヒトDNA)
- サンプル保存: DNAの分解を防ぐための適切な保存法
- メタデータ: サンプルの詳細な情報(場所、時間、環境条件など)の記録
3.4 データ解析の基本原理
メタゲノミクスデータの解析には、いくつかの基本原理が適用される:
- カバレッジと深度: 十分なシーケンスデータ量を確保することの重要性
- 多様性指標: α多様性(単一サンプル内の多様性)とβ多様性(サンプル間の違い)
- レアリファクション: サンプル間の比較を可能にするための標準化
- 系統樹と分類学の概念: 生物の進化的関係性の理解
- 機能予測: 遺伝子から潜在的な機能を予測する方法
- ネットワーク解析: 種間相互作用の推定
4. 研究ツールと技術
4.1 次世代シーケンシング技術
メタゲノミクスを可能にした主要なシーケンシング技術:
- イルミナ技術: 短鎖読み取りで高精度・大量データ生成(HiSeq, MiSeq, NovaSeq)
- ナノポアシーケンシング: ポータブルで長鎖読み取りが可能(MinION, GridION)
- PacBio技術: 高精度な長鎖読み取り(SMRT技術)
- Ion Torrent: 半導体チップを用いた読み取り技術
- MGI (BGI): DNBSeqなどの新興技術
各技術は読み取り長、正確性、コスト、スループットなどで異なる特徴を持つ。
4.2 バイオインフォマティクスツール
メタゲノミクスデータの解析に使用される主要なソフトウェア:
4.2.1 クオリティコントロールとプリプロセッシング
- FastQC: シーケンスデータの品質評価
- Trimmomatic: アダプター配列の除去と品質フィルタリング
- BBMap/BBTools: データ前処理の多機能ツールキット
4.2.2 分類学的解析
- Kraken2/Bracken: k-merに基づく高速分類
- MetaPhlAn: マーカー遺伝子に基づく分類学的プロファイリング
- MEGAN: 最小共通祖先アルゴリズムを用いた分類
4.2.3 アセンブリツール
- MEGAHIT: メタゲノム特化の高速アセンブラ
- MetaSPAdes: 複雑なメタゲノムのアセンブリに最適化
- IDBA-UD: 不均一なカバレッジに対応したアセンブラ
4.2.4 ビニング(メタゲノムの分別)
- MaxBin: 組成と豊富度情報に基づくビニング
- MetaBAT: テトラヌクレオチド頻度とカバレッジに基づくビニング
- CONCOCT: クラスタリングに基づくアプローチ
4.2.5 機能アノテーション
- Prokka: 迅速なプロカリオットゲノムアノテーション
- eggNOG-mapper: 直交遺伝子グループに基づく機能注釈
- KEGG Orthology: 代謝経路解析のための標準システム
4.2.6 統合プラットフォーム
- MG-RAST: オンラインメタゲノミクス解析サービス
- Anvi’o: 可視化と対話型解析のための包括的プラットフォーム
- QIIME2: 微生物群集解析のための多機能プラットフォーム
4.3 データベースとリファレンスリソース
メタゲノミクス研究者が利用する主要なデータベース:
- RefSeq: NCBIのキュレートされた参照配列データベース
- UniProt: 包括的なタンパク質データベース
- SILVA: リボソームRNA遺伝子データベース
- IMG/M: 統合微生物ゲノム・メタゲノムデータベース
- MGnify: EBIが運営するメタゲノミクス専用データベース
- eggNOG: 直交遺伝子グループデータベース
- KEGG: 代謝経路と機能情報のデータベース
- CARD: 抗菌薬耐性遺伝子データベース
4.4 最新の技術革新
メタゲノミクス研究を進化させる最新技術:
- Hi-C(染色体コンフォメーションキャプチャ): 物理的に近接するDNA領域を同定し、より正確なビニングを可能にする技術[10]
- Oxford Nanopore技術: フィールドでのリアルタイムシーケンシングを可能にする携帯型技術
- シングルセル技術: 個々の微生物細胞を分離・解析する技術
- CRISPR-Cas技術: 特定の配列を濃縮したり、標的化したりする新手法
- Long-read assembly: 長鎖読み取りによる高質なアセンブリ
- メタゲノミクスAI: 人工知能を利用したメタゲノム解析
5. 主要応用分野
5.1 ヒトマイクロバイオーム研究
人体の様々な部位に生息する微生物叢(マイクロバイオーム)の研究:
5.1.1 腸内マイクロバイオーム
- 健康との関連: 消化、免疫系発達、代謝制御など
- 疾患との関連: 炎症性腸疾患、肥満、糖尿病、自閉症など
- 食事の影響: 食物繊維、多糖類、動物性タンパク質などの影響
- プロバイオティクス・プレバイオティクス: 微生物叢操作による健康増進
- 糞便微生物移植(FMT): 腸内細菌叢の移植治療
5.1.2 口腔マイクロバイオーム
- 歯周病とう蝕: 口腔疾患における微生物の役割
- 全身健康との関連: 心血管疾患、関節リウマチなどとの関連
5.1.3 皮膚マイクロバイオーム
- 皮膚バリア機能: 微生物による皮膚健康の維持
- 皮膚疾患: アトピー性皮膚炎、ニキビなどとの関連
5.1.4 ニッチマイクロバイオーム
- 肺、鼻腔、眼、泌尿生殖器: 様々な体の部位の特殊な微生物群集
- 脳-腸相関: 腸内細菌が神経系や行動に与える影響
5.2 環境メタゲノミクス
自然環境における微生物群集研究:
5.2.1 海洋メタゲノミクス
- 海洋微生物の多様性: 表層から深海までの微生物生態系
- 炭素・窒素循環: 地球規模の生物地球化学的循環における役割
- 海洋汚染: プラスチック分解や油流出への微生物応答
5.2.2 土壌メタゲノミクス
- 農業と肥沃度: 作物生産と土壌健全性における微生物の役割
- バイオレメディエーション: 汚染物質分解への応用
- 植物-微生物相互作用: 根圏・菌根菌などの共生関係
5.2.3 極限環境
- 熱水噴出孔: 深海の高温・高圧環境の微生物
- 極地環境: 南極・北極の氷や永久凍土の微生物群集
- 酸性鉱山排水: 極端な酸性環境における適応
5.3 産業応用
メタゲノミクスの産業への応用:
5.3.1 バイオテクノロジー
- 新規酵素探索: 工業プロセス用の効率的酵素
- 二次代謝産物: 新規抗生物質・生理活性物質の発見
- バイオエネルギー: バイオマス分解や燃料生産への応用
5.3.2 農業・食品
- 肥料・生物農薬: 微生物を活用した持続可能な農業
- 食品発酵: 発酵食品における微生物群集の役割
- 食品安全: 食中毒原因菌のモニタリング
5.3.3 環境バイオテクノロジー
- 廃水処理: 微生物による浄化プロセスの最適化
- バイオガス生産: メタン生成古細菌の活用
- バイオリーチング: 鉱物からの金属抽出
6. マイナーだが重要な応用
一般的にはあまり知られていないが、重要な応用分野:
6.1 法科学メタゲノミクス
- 微生物フォレンジック: 犯罪現場の微生物DNAから時間や場所の推定
- 個人識別: 皮膚微生物叢に基づく個人特定の可能性
- 死後経過時間推定: 遺体の分解過程における微生物群集変化
- 地理的起源推定: 土壌微生物叢からの試料採取地の特定
6.2 古代メタゲノミクス
- 考古学的試料: 古代の微生物DNAから過去の疾病や環境を解読
- 古代病原体: 疫病の歴史的流行の原因解明
- 古代食性: 歯垢などから古代人の食生活を推定
- 環境変化: 堆積物コアなどからの古代環境復元
6.3 宇宙生物学とアストロバイオロジー
- 宇宙ステーション微生物叢: 国際宇宙ステーションの微生物モニタリング
- 惑星保護: 他天体の汚染防止のための微生物検出
- 生命探査: 火星などでの生命痕跡探索のための技術開発
- 宇宙飛行士の健康: 長期宇宙滞在における微生物叢変化
6.4 建築バイオーム
- 室内空気質: 建物内の微生物叢と健康の関連
- 病院環境: 院内感染症に関わる微生物モニタリング
- 建材劣化: 建材の微生物による分解プロセス
- 建築バイオデザイン: 健康増進のための微生物学的に考慮された建築設計
6.5 文化財保全
- 美術品劣化: 絵画や彫刻の生物劣化メカニズム
- 古文書保存: 紙の劣化に関わる微生物の特定
- モニュメント保護: 石造建築物の微生物による風化
- 保全戦略: 文化財保護のための微生物管理手法
7. 驚くべき発見と革新的知見
メタゲノミクスがもたらした驚くべき発見の数々:
7.1 生命の木の再構築
- 新門レベルの系統: バクテリアとアーキアの新しい主要系統の発見
- CPR (Candidate Phyla Radiation): 超小型ゲノムを持つ一連の未培養バクテリア
- Asgard古細菌: 真核生物に最も近縁な古細菌グループの発見
- 系統分類学的パラダイムシフト: 16Sリボソーム遺伝子だけに基づかない新たな分類体系
7.2 微生物の驚異的多様性
- 単一環境内の種数: 少量の土壌サンプルから数万~数十万種の検出
- レアバイオスフィア: 極めて低存在量でありながら重要な機能を持つ「レア」な微生物
- 微生物暗黒物質: 既知の系統に分類できない配列の高い割合
- 水平遺伝子伝達の普遍性: 種の境界を越えた遺伝子の流れの一般性
7.3 予想外の機能と代謝経路
- 従属栄養と思われていた生物の光合成能力: 従来の分類を超えた機能の発見
- アンモニア酸化古細菌: 窒素循環における古細菌の重要性
- 新規抗生物質耐性遺伝子: 自然環境中での予想外の高頻度の存在
- メタゲノムから発見された新しい代謝経路: クラタクノン回路など
7.4 微生物-宿主相互作用の複雑性
- 腸-脳軸: 腸内細菌が脳機能や行動に影響する経路
- 免疫系の教育: 微生物による免疫系発達の調節
- 微生物による内分泌調節: ホルモン様物質を産生する腸内細菌
- 社会性行動への影響: 微生物叢が社会的行動やストレス応答に与える影響
7.5 マイナーだが革新的な発見
- CRISPR-Casシステム: メタゲノムからの発見がゲノム編集革命へ
- クォーラムセンシングの多様性: 細菌間コミュニケーションの予想外の複雑さ
- 環境RNA世界: 環境中のRNA分子の豊富さと機能
- ウイルス-微生物の共進化: ファージと宿主の軍拡競争の分子基盤
8. 課題と限界
メタゲノミクスが直面する主な課題:
8.1 技術的課題
- 不完全なデータベース: 参照データベースの偏りと不完全性
- 断片的な配列: 短い配列からの正確なアセンブリの困難さ
- 計算リソース: 大量データ処理に必要な高性能コンピューティング
- 標準化の欠如: 方法論やデータ形式の標準化不足
- 低存在量種の検出限界: レアな微生物の検出と解析の難しさ
8.2 解析的課題
- 種の概念: 微生物における「種」の定義の曖昧さ
- 機能予測の限界: 配列から機能への推論の不確実性
- 相関と因果: 相関関係から因果関係を導き出す困難
- 時間的ダイナミクス: 静的なスナップショットから動的プロセスを推測する限界
- メタデータ不足: 環境データや臨床データとの統合の難しさ
8.3 経済的・倫理的課題
- 研究コスト: 高額な機器とシーケンスコスト(低下傾向にあるが)
- 知的財産権: 環境サンプルからの発見の特許化の問題
- データ共有: 大規模データセットの効果的な共有方法
- プライバシー問題: ヒトマイクロバイオームデータの機密性
- 生物探査: 伝統的知識と生物資源の利用に関する倫理的問題
8.4 実装と応用の壁
- 研究から実用化へのギャップ: 発見から応用までの長いリードタイム
- 規制上の課題: 新技術の安全性評価と規制の枠組み
- スケールアップの問題: 実験室からフィールドへの移行の難しさ
- 学際的専門知識の必要性: 生物学、情報科学、統計学の統合的理解の要求
- 一般認識: 微生物の重要性と生態系における役割の社会的理解不足
9. 未来の展望と可能性
メタゲノミクスの未来を形作る可能性のある方向性:
9.1 技術的進化
- 長鎖シーケンシングの普及: 完全なゲノム再構築の向上
- ポータブルシーケンシング: フィールドでのリアルタイム解析
- 機械学習の統合: AI支援によるデータ解析の革新
- マルチオミクス統合: メタゲノム、メタトランスクリプトーム、メタプロテオームなどの統合
- 合成生物学との融合: メタゲノム情報に基づくデザイナー微生物群集
9.2 医療革命
- マイクロバイオーム医療: マイクロバイオームに基づく診断と治療
- 精密プロバイオティクス: 特定の健康状態に合わせた微生物製剤
- ファージセラピー: 病原菌特異的ファージによる感染症治療
- 微生物移植療法: 様々な疾患に対するマイクロバイオーム移植
- 抗菌剤開発: メタゲノムからの新規抗生物質発見
9.3 環境・農業応用
- 気候変動緩和: 炭素固定や温室効果ガス削減のための微生物活用
- スマート農業: 土壌微生物に基づく精密農業
- 環境モニタリング: 生態系健全性の微生物学的指標
- 生物修復の最適化: 汚染物質分解のための微生物群集設計
- 生物地球工学: 大規模環境修復のための微生物活用
9.4 産業イノベーション
- 合成生物学パイプライン: メタゲノムから産業利用までの効率的プロセス
- バイオエコノミー: 微生物を利用した持続可能な生産システム
- 生物プロセスのデジタルツイン: コンピュータモデルによる生物プロセス最適化
- バイオファウンドリー: 高スループットの生物学的生産施設
- バイオインスパイアード材料: 微生物プロセスを模倣した新材料開発
9.5 知識のフロンティア
- 生命の定義の再考: 微生物群集の相互依存性に基づく生命の再定義
- 微生物暗黒物質の解明: 未知の微生物世界の解明
- 地球外生命探査への応用: 他天体での生命検出のためのツール
- 共生進化の理解: 宿主-微生物の共進化プロセスの解明
- 生物社会のネットワーク理論: 微生物間相互作用の数理モデル化
10. 思考実験:メタゲノミクスの哲学的含意
メタゲノミクスが提起する深遠な問いかけ:
10.1 個体性の問い直し
微生物群集の研究は、生物学的「個体」の概念に疑問を投げかける。ヒトは単一の生物なのか、それとも微生物を含む複合生態系なのか?私たちの体は約30兆の人間細胞と38兆の微生物細胞で構成されている。この事実は、「自己」の境界をどこに引くべきかという根本的問題を提起する。
10.2 汎生命体としての地球
メタゲノミクスは、地球上の全生命がDNAというコードを共有し、遺伝子が種の境界を越えて流れる相互接続されたネットワークであることを明らかにした。これはジェームズ・ラブロックの「ガイア仮説」に新たな科学的側面を加える。地球は、その微生物システムを通じて、一種の超有機体として機能しているのかもしれない。
10.3 還元主義からシステム思考へ
メタゲノミクスの出現は、生物学における還元主義的アプローチの限界を浮き彫りにした。単一の生物や遺伝子を分離して研究するだけでは、複雑な生態系の振る舞いは理解できない。この認識は、生命科学全体におけるパラダイムシフトを象徴している。
10.4 遺伝子プールとしての生物圏
メタゲノミクスの視点から見ると、地球上の全DNAは巨大な「遺伝子プール」あるいは「パンゲノム」と考えることができる。この視点は、種の境界よりもむしろ、遺伝子の流れと機能的冗長性を強調する。進化は個々の生物の適応だけでなく、このグローバルな遺伝子ネットワークのダイナミクスとして理解できる。
10.5 人間中心主義の再考
微生物世界の複雑さと重要性の発見は、生態系における人間の位置づけを再考させる。私たちは自然の支配者ではなく、むしろ微生物によって形作られ、支えられている参加者にすぎない。メタゲノミクスは、より謙虚で生態学的に調和した世界観への移行を促している。
11. 参考文献とリソース
- Handelsman J, Rondon MR, Brady SF, Clardy J, Goodman RM. (1998). Molecular biological access to the chemistry of unknown soil microbes: a new frontier for natural products. Chemistry & Biology, 5(10), R245-R249.
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- Pace NR, Stahl DA, Lane DJ, Olsen GJ. (1986). The analysis of natural microbial populations by ribosomal RNA sequences. Advances in Microbial Ecology, 9, 1-55.
- Venter JC, Remington K, Heidelberg JF, et al. (2004). Environmental genome shotgun sequencing of the Sargasso Sea. Science, 304(5667), 66-74.
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- The Human Microbiome Project Consortium. (2012). Structure, function and diversity of the healthy human microbiome. Nature, 486(7402), 207-214.
- Thompson LR, Sanders JG, McDonald D, et al. (2017). A communal catalogue reveals Earth’s multiscale microbial diversity. Nature, 551(7681), 457-463.
- Sunagawa S, Coelho LP, Chaffron S, et al. (2015). Ocean plankton. Structure and function of the global ocean microbiome. Science, 348(6237), 1261359.
- Albertsen M, Hugenholtz P, Skarshewski A, et al. (2013). Genome sequences of rare, uncultured bacteria obtained by differential coverage binning of multiple metagenomes. Nature Biotechnology, 31(6), 533-538.
- Burton JN, Liachko I, Dunham MJ, Shendure J. (2014). Species-level deconvolution of metagenome assemblies with Hi-C-based contact probability maps. G3: Genes, Genomes, Genetics, 4(7), 1339-1346.
オンラインリソース
- MG-RAST: https://www.mg-rast.org/
- IMG/M: https://img.jgi.doe.gov/
- EBI Metagenomics Portal: https://www.ebi.ac.uk/metagenomics/
- Human Microbiome Project: https://hmpdacc.org/
- Earth Microbiome Project: https://earthmicrobiome.org/
- Integrated Microbial Genomes: https://img.jgi.doe.gov/
メタゲノミクスという分野は、わずか数十年の間に微生物学の風景を一変させ、私たちの生命観と世界観を大きく変えた。顕微鏡が見えない微生物世界への窓を開いたように、メタゲノミクスは培養できない微生物の隠された森林への扉を開いたのだ。今後、この分野はさらに進化し、医療、環境科学、産業、そして哲学的思考にまで影響を及ぼしていくだろう。微生物の世界を理解することは、結局のところ、私たち自身と私たちの住む惑星をより深く理解することにつながるのだ。