第7部:ゲノム編集時代の新たな規制哲学的課題
SDN分類体系が突きつける「自然/人工」二分法の根本的破綻
ゲノム編集技術の分子生物学的精密性が生み出す規制上の逆説
2012年にジェニファー・ダウドナとエマニュエル・シャルパンティエによって開発されたCRISPR/Cas9システムは、従来の遺伝子組み換え技術とは根本的に異なる精密性を実現した。この技術的進歩が、皮肉にも規制体系に前例のない複雑性をもたらしている。
なぜCRISPR/Cas9は規制当局を困惑させるのか? その答えは、技術の精密性そのものにある。ガイドRNAによる標的部位認識は極めて高い特異性を持つ。しかし、この高精度技術が生み出す結果物は、従来の「遺伝子組み換え生物」の定義から逸脱する可能性を秘めている。
国際的な規制枠組みでは、SDN(Site-Directed Nuclease)技術を3つのカテゴリーに分類している。SDN-1は外来遺伝子を導入せず、標的部位に小さな欠失や挿入を起こす技術である。SDN-2は短鎖DNA(通常20塩基対以下)を鋳型として用いる相同組み換えによる精密な置換技術。SDN-3は長鎖DNAや複数遺伝子の導入を行う技術で、従来の遺伝子組み換えに最も近い。
この分類体系が規制当局に突きつける根本問題は何か? それは、技術の複雑性と結果物の単純性の間にある矛盾である。極めて精密で人工的な技術を用いながら、その結果として生じる変異は自然界でも起こりうる変化と区別がつかない場合が多い。
確率論的変異メカニズムと決定論的規制体系の不整合
CRISPR/Cas9システムにおけるDNA修復過程は、本質的に確率論的性質を持っている。Cas9ヌクレアーゼが標的部位でDNA二本鎖切断を起こした後、細胞の修復機構が作動する。この修復には主に2つの経路がある。
非相同末端結合(NHEJ)という修復機構はなぜ予測困難なのか? この修復過程では、切断されたDNA末端が直接結合されるが、その際に数塩基対の欠失や挿入が確率的に発生する。Mali et al. (2013)の研究によれば、NHEJ修復における変異パターンは完全に予測可能ではなく、同一の標的部位であっても異なる変異が生じる可能性がある。
相同組み換え修復(HDR)はより精密だが、効率が低い。Ran et al. (2013)は、多くの細胞種でHDRの効率がNHEJより低いことを報告している。このため、意図した精密な変異を得るためには、多数の細胞を処理し、その中から目的の変異を持つ個体を選抜する必要がある。
オフターゲット効果の確率論的性質が規制判断に与える影響は何か? Zhang et al. (2015)による大規模スクリーニングでは、設計されたガイドRNAの約0.1-1%に予期しない部位での切断活性が観察された。この確率は決して無視できるレベルではない。
従来の化学変異原や放射線照射による育種と比較すると、変異の性質に興味深い違いがある。Shimatani et al. (2017)の研究では、EMS(エチルメタンスルホネート)処理では主にC→T変異が生じるが、CRISPR/Cas9では様々な種類の小さな欠失・挿入が生じることが示された。
実用化事例における技術特性と社会的受容のギャップ
2021年に日本で販売開始された「シシリアンルージュハイギャバ」は、ゲノム編集技術の社会実装における象徴的事例である。この品種は、GABA(γ-アミノ酪酸)含量が従来品種の約4-5倍となる113mg/100gを実現している。
なぜこの改良は従来育種では困難だったのか? GABA合成に関わる酵素GAD(グルタミン酸デカルボキシラーゼ)の活性調節は極めて複雑で、従来の交配育種や突然変異育種では目的の形質のみを改良することが困難であった。Nonaka et al. (2017)は、GAD遺伝子のプロモーター領域に14塩基対の欠失を導入することで、効率的にGABA含量を増加させることに成功したと報告している。
水産分野では、京都大学とリージョナルフィッシュ社が開発した「22世紀鯛」と「22世紀ふぐ」が注目される。これらは成長抑制ホルモンであるミオスタチン遺伝子の機能を抑制することで、可食部収量約20%増(鯛)、成長速度約1.9倍(ふぐ)を実現している。
従来の品種改良と何が根本的に異なるのか? 魚類におけるミオスタチン遺伝子の機能抑制は、従来の選抜育種では実現に数十世代を要するが、ゲノム編集では1世代で達成可能である。Kishimoto et al. (2018)の研究では、CRISPR/Cas9によるマダイのミオスタチン遺伝子編集により、筋肉量が約15-20%増加することが確認された。
植物分野では、筑波大学江面浩教授らが開発したGABA高含有トマトが先駆的事例となっている。この技術は、トマトのGAD(グルタミン酸デカルボキシラーゼ)遺伝子の転写調節領域を改変し、酵素活性を向上させることでGABA含量を増加させている。
日本の規制体制における「該当性判断」の技術的困難
環境省が所管するカルタヘナ法では、「遺伝子組み換え生物等」の定義が規制の出発点となる。しかし、SDN-1技術で作出された生物が最終的に外来DNA配列を含まない場合、この定義への該当性判断が極めて困難になる。
なぜ外来DNA残存の確認が技術的に困難なのか? CRISPR/Cas9システムでは、Cas9タンパク質とガイドRNAは一過性に細胞内に導入される。これらの成分は細胞分裂とともに希釈され、最終的には検出限界以下となる。現在の検出技術では、全ゲノムシーケンシングを行っても、導入ベクター由来の配列が完全に除去されたことを証明することは困難である。
Wolt et al. (2016)の分析では、次世代シーケンサーによる検出でも、理論的には10^-8レベルの微量な外来DNA断片の残存可能性を完全に排除することはできないとされている。この技術的限界は、規制当局にとって判断基準の設定を困難にしている。
厚生労働省の届出制度では「自然突然変異等価性」が重要な判断基準となっている。しかし、この基準の運用には根本的な問題がある。
「自然界で起こりうる変異」をどのように定義するのか? 自然突然変異の範囲を厳密に定義することは科学的に極めて困難である。Ossowski et al. (2010)による大規模な自然突然変異解析では、シロイヌナズナでも1世代あたり約7個の点突然変異が観察されたが、欠失・挿入変異の頻度や範囲については明確な基準が存在しない。
消費者庁の表示制度では「検証可能性」が重要な要件とされているが、ゲノム編集食品では実用的な検証方法が存在しない場合が多い。従来の遺伝子組み換え食品では、導入された外来遺伝子配列を標的としたPCR検査が可能であったが、SDN-1技術では標的とする特異的配列が存在しない。
EU司法裁判所判決が示す「自然性」概念の法的複雑性
2018年7月25日のEU司法裁判所判決(Case C-528/16)は、ゲノム編集技術に対する規制アプローチに国際的な影響を与えた。この判決では、新しい変異誘発技術(ゲノム編集を含む)により得られた生物も指令2001/18/ECの規制対象であるとの判断が示された。
この判決の論理的根拠は何か? 裁判所は「長い安全使用歴史」という基準を重視し、従来の変異誘発技術(化学変異原、放射線照射)には長期間の使用実績があるが、新しいゲノム編集技術にはそのような実績がないと判断した。
Sprink et al. (2016)の分析によれば、この判決は技術の精密性よりもプロセスの新規性を重視する「プロセスベース規制」の典型例である。しかし、この解釈には科学的根拠の観点から疑問が提起されている。
Van der Meer et al. (2021)は、CRISPR/Cas9による変異と従来の変異誘発技術による変異を分子レベルで比較し、結果として生じる変異パターンに本質的な違いがないことを示している。にもかかわらず、プロセスの違いを根拠とした規制区分が維持されている現状は、科学的合理性と法的安定性の間の緊張関係を象徴している。
アメリカの「植物病害虫リスク」基準とゲノム編集技術の整合性
アメリカのUSDA-APHIS(動植物検疫局)は、異なる規制アプローチを採用している。連邦規則7 CFR part 340では、「植物病害虫リスクを持つ遺伝子組み換え生物」のみが規制対象とされる。
この基準がゲノム編集技術に与える影響は何か? 多くのSDN-1技術では外来遺伝子が導入されないため、植物病害虫リスクが存在しないと判断される場合が多い。Waltz (2018)の調査では、USDA-APHISに相談された143件のゲノム編集作物のうち、約85%が規制対象外との判断を受けている。
しかし、この判断基準にも問題がある。植物病害虫リスク以外の環境リスクや食品安全性については、別の規制枠組み(EPA、FDA)の管轄となるが、これらの機関間の調整が不十分な場合がある。
Kuzma (2018)の政策分析では、アメリカの分割的規制システム(Coordinated Framework)がゲノム編集技術の包括的安全性評価を困難にしていると指摘されている。各機関の専門性を活用する利点がある一方で、規制の空白や重複が生じるリスクもある。
Codex Alimentariusにおける国際標準化の困難性
国際食品規格委員会(Codex Alimentarius)では、2019年からゲノム編集食品に関する国際基準策定の検討が開始された。しかし、加盟国間の規制アプローチの相違により、合意形成は極めて困難な状況にある。
国際標準化を阻害する主要因は何か? 最大の障害は、EU、アメリカ、日本、カナダなどの主要国が異なる規制哲学を採用していることである。Jouanin et al. (2018)の比較分析では、同一の技術・作物であっても、国により規制要件が大きく異なることが示されている。
Codex委員会における議論では、科学的評価の方法論についても意見が分かれている。リスク評価の範囲、比較対象の設定、長期安全性データの要否など、基本的な評価手法について国際的コンセンサスが形成されていない。
Smyth et al. (2019)は、このような状況が国際貿易に与える影響を分析し、規制の非調和により技術革新の恩恵が阻害される可能性を指摘している。特に開発途上国では、複数の異なる規制基準への対応が技術導入の障壁となっている。
既存二分法的規制枠組みの根本的限界
従来の「自然/人工」「組み換え/非組み換え」という二分法的分類は、ゲノム編集時代において根本的な限界を露呈している。
なぜ従来の分類体系が破綻しているのか? 第一に、技術の精密性により「人工的手法による自然的結果」という逆説的状況が生じている。SDN-1技術により作出された作物の中には、自然界の突然変異と区別不可能な変異を持つものが存在する。
第二に、「組み換え」の定義そのものが曖昧になっている。従来の遺伝子組み換えでは異種間の遺伝子移転が典型的であったが、ゲノム編集では同種内の変異や遺伝子機能の調節が主な目的となる場合が多い。
Kawall (2019)の哲学的分析では、これらの技術的発展により「自然性」概念そのものの再定義が必要となっていると論じられている。科学技術の発展により、従来の「自然/人工」区分が実用的意味を失いつつある。
新たな規制哲学構築への示唆:リスクベースアプローチの可能性
こうした困難を克服するため、リスクベースアプローチへの転換が国際的に議論されている。このアプローチでは、技術の種類よりも結果として生じる製品の特性とリスクに焦点を当てる。
リスクベースアプローチの核心的特徴は何か? このアプローチでは、作出プロセスよりも最終製品の安全性評価を重視する。具体的には、新規タンパク質の発現、代謝物の変化、アレルゲン性の変化などを科学的に評価し、リスクレベルに応じた規制強度を決定する。
Wolt et al. (2016)の提案する段階的規制システムでは、低リスクと判断される変異については簡素な届出制度、高リスクの場合には詳細な安全性評価を要求する制度設計が示されている。
しかし、このアプローチにも課題がある。リスク評価の基準設定、長期影響の予測困難性、社会的受容性との整合など、解決すべき問題は多い。Turnbull et al. (2021)は、技術的合理性と社会的価値判断の適切なバランスが今後の制度設計の鍵となると指摘している。
ゲノム編集時代の規制哲学が直面する根本課題は何か? それは、技術の精密性向上が規制の複雑性増大をもたらすという逆説的状況である。より精密で予測可能な技術が、より不確実で判断困難な規制問題を生み出している。
この矛盾の解決には、従来の技術決定論的な規制アプローチから、社会技術システム全体を考慮した包括的ガバナンスへの転換が必要となる。科学的合理性、社会的価値、経済的実現可能性、国際的調和を統合した新たな制度設計が、21世紀のバイオテクノロジーガバナンスの中核的課題となっている。
参考文献
ゲノム編集技術の基礎研究
- Jinek, M., et al. (2012). “A programmable dual-RNA-guided DNA endonuclease in adaptive bacterial immunity.” Science, 337(6096), 816-821.
- Mali, P., et al. (2013). “RNA-guided human genome engineering via Cas9.” Science, 339(6121), 823-826.
- Ran, F. A., et al. (2013). “Genome engineering using the CRISPR-Cas9 system.” Nature Protocols, 8(11), 2281-2308.
- Zhang, X. H., et al. (2015). “Off-target effects in CRISPR/Cas9-mediated genome engineering.” Molecular Therapy-Nucleic Acids, 4, e264.
変異メカニズムと従来育種技術の比較
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- Ossowski, S., et al. (2010). “The rate and molecular spectrum of spontaneous mutations in Arabidopsis thaliana.” Science, 327(5961), 92-94.
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国際的規制枠組み
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アメリカの規制アプローチ
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- Kuzma, J. (2018). “Procedurally robust risk assessment framework for novel genetically engineered organisms and gene drives.” Regulation & Governance, 12(4), 572-589.
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- Kawall, K. (2019). “New possibilities on the horizon: Genome editing makes the whole genome accessible for changes.” Frontiers in Plant Science, 10, 525.
- Turnbull, C., et al. (2021). “Global regulation of genetically modified crops amid the gene edited crop boom–a review.” Frontiers in Plant Science, 12, 630396.