第9部:佐渡島トキ復活プロジェクトの包括的戦略分析:脱農薬農業の実践モデルとしての意義
絶滅危惧種の保護と地域経済の活性化は本当に両立可能なのだろうか。この問いに対する答えを、新潟県佐渡島で展開されているトキ復活プロジェクトから探ってみたい。JA佐渡は2018年からネオニコチノイド系農薬不使用をJA米の要件に追加し、これは生態系保護を契機とした農業の根本的転換として注目に値する。
この取り組みは単なる環境保護運動を超えた、新しい地域発展モデルの創造として理解できる。2007年に開始された「朱鷺と暮らす郷づくり認証制度」が、なぜ17年以上にわたって持続し、しかも経済的成功を収めているのか。その背景には、従来の農業政策では見落とされがちな複数の要素が相互作用している可能性がある。
生態系保護がもたらした意識変革のメカニズム
2008年の第1回放鳥を契機とした住民意識の変化について検討してみると、興味深い社会心理学的現象が見えてくる。絶滅危惧種という「象徴的存在」の復活が、地域住民の環境意識に与えた影響は想像以上に大きかったと推測される。
このような意識変化を「環境アイデンティティ」という視点で捉えると、地域住民が「トキと共に生きる島の住民」というアイデンティティを獲得することで、環境配慮行動への内発的動機が生まれると考えられる。重要なのはこの変化が強制的なものではない点で、「行政がやらせているのではなく、農家さんの主体的な取り組みを核に関係者が一体となって協議し進めている」ことである。
しかし、世代間での意識差も存在すると考えられる。一般的に環境意識は若い世代ほど高い傾向があり、佐渡でも同様の傾向が見られる可能性がある。この点については、長期的な世代継承効果のモニタリングが重要だろう。
農協組織による「制度的橋渡し」の意義
JA佐渡が「自然災害に強い米作り」と「佐渡米というブランディングの確立」という2つの方向性を掲げ、島全体で取り組むことを決意した背景には、農協組織特有の調整機能が働いている。
これを「制度的起業家精神」として理解すると新たな視点が得られる。JA佐渡は単なる農産物販売組織から、地域の持続可能性を担う「制度的起業家」へと役割を拡張したのである。当初の「農薬を減らして病気や虫が発生したらどうするんだ」「肥料を減らして収量が減ったらどうするんだ」といった農家の不安に対し、技術支援と経済的保障をパッケージで提供する戦略は、リスク分散の観点から合理的だった。
減農薬農業の技術革新と知識創造
ネオニコチノイド系農薬の不使用は、水稲では技術的に実現可能だが、園芸作物については技術的課題が残るという現実は、農業技術の複雑性を示している。
佐渡での減農薬技術の確立過程は、「実践的知識創造」の優良事例として評価できる。天敵昆虫の活用、フェロモントラップによるモニタリング、生物農薬の導入など、総合的害虫管理(IPM)の実践は、単一技術の導入ではなく「技術体系の再構築」を意味する。
全面的に水を張るふゆみずたんぼよりも、部分的に湿ったところを設けた方がトキにもヒトにもよいという発見は、生態学的知識と農業技術の統合による新たな知見の創出例である。このような「現場からの知識創造」は、研究室だけでは得られない貴重な価値を持つ。
市場価値創造のメカニズム
認証米の市場価格について具体的なデータは限られているが、販売利益の一部をトキの保全活動に充てることで、食と命を育む生きものと共生した持続的な農業を展開している点は、新しい価値創造モデルとして注目される。
これを「ソーシャル・インパクト・ボンド」の概念で理解すると、消費者が環境保護という社会的価値に対して支払うプレミアムが、生産者の持続可能な農業実践を経済的に支える循環システムが成立していることがわかる。ただし、この価格プレミアムが長期的に維持される保証はなく、消費者の価値観変化や競合商品の出現によってリスクも存在する。
生物多様性復活の科学的評価
2020年頃の目標220羽を上回る成果を上げ、野生下のトキ個体数は2022年時点で推定569羽に達し、2019年1月には評価が「野生絶滅」から「絶滅危惧1A類」に改善された。これは生物多様性保護の成功例として評価できる。
しかし、生物多様性の復活を定量的に評価するためには、より詳細な生態学的モニタリングが必要だ。トキ以外の鳥類、水生昆虫、両生類、魚類の種数・個体数変化、さらには食物網の構造変化を長期的に追跡することで、農薬削減の生態学的効果をより正確に把握できるだろう。
特に重要なのは、2023年の国立環境研究所エコチル調査では、母親の妊娠中のネオニコチノイド系農薬等ばく露と4歳までの子どもの発達指標との間に統計学的な関連は見られなかったという最新研究結果も考慮に入れた、冷静な影響評価である。ネオニコチノイド系農薬の影響については、現在も日本で再評価が進行中であり、科学的知見の蓄積を待つ必要がある。
消費者行動と社会的価値の変遷
認証米の購買行動について詳細なデータは確認できないが、コープ新潟との連携協定により、販売した米1kgに付き1円を「佐渡市トキ環境整備基金」に寄付する仕組みは、消費者参加型の環境保護モデルとして興味深い。
このような「意識ある消費」の拡大は、単なる商品選択を超えて、消費者自身が環境保護の当事者となる機会を提供している。ただし、この傾向が一時的なブームなのか、それとも持続的な価値観変化なのかは、より長期的な観察が必要である。
他地域への応用可能性と限界
佐渡島の成功要因として、島という地理的境界による地域統合の容易さ、トキという強力なシンボル生物の存在、新潟大学佐渡自然共生科学センターによる学術的支援体制、さらには住民の結束力などが挙げられる。
しかし、これらの要因は他地域で容易に再現できるものではない。特に、絶滅危惧種の復活という「物語性」は模倣困難な要素である。むしろ重要なのは、地域固有の資源と課題に応じた独自の「価値創造システム」を構築することだろう。
国際的文脈での評価
EUでは2013年に欧州食品安全機関(EFSA)がアセタミプリドとイミダクロプリドについて発達神経毒性の懸念を示し、ヨーロッパ諸国では使用禁止や規制強化が進んでいる状況と比較すると、佐渡の取り組みは国際的な潮流を先取りしたものとして評価できる。
しかし、2011年に日本で初めて世界農業遺産(GIAHS)に認定された佐渡の事例が、どの程度国際的な有機農業市場で競争力を持ち得るかは、今後の課題である。品質と安全性の向上だけでなく、国際認証制度への対応も必要となるだろう。
新しい統合概念:「生態系サービス型農業」
佐渡島の取り組みを理解するために、「生態系サービス型農業」という概念的枠組みを提示したい。これは、農産物生産だけでなく、生物多様性保護、景観保全、文化的価値創造、環境教育などの多面的機能を統合的に提供する農業システムとして理解できる。
この概念の核心は、農業を「生産業」から「総合的価値創造業」へと転換することにある。佐渡の事例では、米の生産という一次的価値に加えて、生物多様性保護(生態系価値)、地域ブランド創造(文化的価値)、環境教育(教育的価値)、観光資源創出(経済的価値)が統合されている。
長期的持続可能性への課題と展望
佐渡のモデルが長期的に持続するためには、いくつかの課題に対処する必要がある。第一に、農業従事者の高齢化と後継者不足という全国的問題への対応。第二に、気候変動による生態系や農業への影響。第三に、国際市場での競争激化と消費者ニーズの変化。
2017年に始まった「JA佐渡自然栽培研究会」による完全無農薬・無施肥での米作りの取り組みは、さらなる技術革新への挑戦として評価できる。この「段階的深化戦略」は、持続的な改善を可能にする重要なアプローチだ。
新しい地域発展の創出
佐渡島トキ復活プロジェクトは、環境保護と経済発展の二項対立を超越した新しい地域発展を提示している。その本質は、生物多様性という「見えない資本」を「見える価値」に転換するシステムの構築にある。
しかし、この成功が他地域で機械的に再現できるものではないことも明らかだ。重要なのは、各地域が固有の資源と文化に基づいた独自の価値創造システムを構築することである。佐渡の経験は、そのための重要な示唆を提供している。
今後の展開として注目すべきは、デジタル技術を活用した精密農業との統合、カーボンニュートラルへの貢献、さらには国際的な生物多様性保護ネットワークへの参加などである。佐渡島の挑戦は、持続可能な社会への転換における重要な実験場として、引き続き世界の注目を集めるだろう。
参考文献
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