twitterを始めました‼

具象抽象の技を極める:具体を超えた理解を高める方法

抽象を具体で説明するメタファーという言葉は存在しているが、具体を抽象で正しく説明する言葉の名前は存在していない。「正しく」と表現したのは、シミリー(simile)やアブストラクション(abstraction)など類似したものが存在するためである。ここでは単純に「抽象から具体」を経由する方向性をメタファーと呼んでいる。

具体事例からの分析を行い、本質を抽出し、その特徴を基に一般的な概念や法則を形成する抽象化(abstraction)と、観察によって特徴やパターンの共通性を見出し、より上位のドメインでまとめる概念化(conceptualization)がある。犬や猫などの具体的動物から「ペット」を創り出すのは概念化であり、具体的な車や自転車を「乗り物」という広範な概念にするのは抽象化である。概念化は具体的な事例を基にして特定の概念を形成するプロセスであり、より狭い範囲で具体的な事例に基づいている。一方、抽象化は特定の事例からさらに一歩進み、本質的な特徴を抽出し、広範囲に適用できる概念や法則を形成するプロセスである。概念化は具体的な事例の共通点を見出して新しい概念を作り出すため、その応用範囲はその新しい概念に限定されるが、抽象化は抽出された本質的な特徴を基に広範囲に応用できるため、より多様な場面に適用可能である。

したがって、概念化と抽象化は、具体的な事例から一般的な理解を得るためのプロセスとしては同じであるが、抽象化はより普遍的な真理に近づくものであり、その逆は必ずしも正しくない。この点を理解することが、言語や思考の深淵に対する洞察を深める鍵となる。

運や幸福という言葉は慣例的に間違いなく類概念(hypernym)の役割を果たしているため、便宜上ここではこれらの言葉は類概念として扱うが、それを解体していくと、類概念の要素として必要な「概念化した言葉」を持ち合わせていない。言い換えると、一段階目の抽象化がないのにもかかわらず二段階目の抽象化があるという振る舞いをしている言葉である。

この種の空の言葉は、人間の成長の観点から使用を避けるべきである。同時に、こういった空の類概念を発見し次第、第一抽象化に当たる概念化のための言語を探すか、類概念としての振る舞いの仕方を中止し、その言葉を概念化または抽象化による第一抽象化でとどまる言葉として再誕生させて使用するように日常的に努めていくべきである。例えば、「幸福」(空の類概念)という言葉の背後にある具体的な感情や状態を詳細に分析し、それを言語化する努力が必要である。その結果、漠然とした「幸福」ではなく、具体的な「充実感」や「満足感」といった言葉が生まれ、より正確なコミュニケーションが可能になる。運についても同様で、単なる「運が良い」「運が悪い」という表現ではなく、具体的な出来事やその背景を理解し、言語化することで、運と解釈されるものの影響をより正確に捉えることができる。

ただし、感覚を鋭敏化し、物事を深く考えられるようになるほど、概念化は空の類概念に様変わりするように見えることとなるだろう。

このような言語化努力を続けることで、抽象的な概念から表面的に操られることが少なくなり、具体的で実体のある理解を深めることができる。言葉の本質を探求すると、言葉は一見具体的なものでありながら、その核心は抽象的な概念の集合体である。我々は言葉を用いて世界を理解しようとするが、それは主観的な解釈に過ぎず、現実の一断面を切り取ったに過ぎない。ということは、言葉の具体性は使用場面や文脈に依存する相対的なものであり、その抽象性は内面の無限の変容を象徴している。

抽象のみで具体を示すことは、概念的な理解を強いる行為であり、具体を示すために抽象のみで語ることもまた、実体を持たないために困難である。これらの試みは、言葉の限界を露呈させ、抽象と具体の相互依存性を浮き彫りにする。抽象的な概念を理解するには、具体的な事例を通じてその輪郭を掴む必要があり、具体的な事象を理解するには、その背後にある抽象的な原理を把握することが重要である。

具象抽象(concretion and abstraction)とは、具体と抽象を併せ持つ状態やそのバランスを指す概念である。しかしながら、今までの議論は現実世界における人間同士の関わりを当然考慮したものである。上記の通り、抽象的な概念の理解には具体性を、具体的な概念の理解にはその抽象性を会得するのが効果的であったが、つまり、会得後とは運用能力の獲得を示しているわけで、困難であった「具体を示すために抽象のみで語る」作業を実践に移すときである。

日常での人との関わりでは抽象のみで語ると不遇の結末になることは避けられないと予想がつくのでお勧めしないが、自己の精神的対話活動においては邪魔する者はいない。日常を「無意識を形成する習慣の流動」と捉えると、言葉の抽象性(空の類概念)に依存して内面の複雑な感情や欲望を直視することを避ける習慣は、安易な解釈に甘んじている状況であると認めて避けるべきである。欲望の満足を幸福と錯覚し、その帰結を運と総括することは、自己の行動に対する責任を放棄し、成長を妨げる。自己のクオリアを深く探求し、内面の複雑性を正しく抽象的に語る能力を高めていかなければならない。

まとめると、一歩進んで、私は次の道を提示し、実践することを薦める。具象抽象のバランスについて、具体をゼロにした説明が叶った文章こそ、すなわち、抽象で説明が完結した文章が真の具体を示していると考える。メタファーとアブストラクションは微分であり、そぎ落としである。つまり、具象抽象の本質は、不定積分の積分定数を無作為に、そして運(概念化後)に頼って巡り合う作業である。積分定数が見つかるまでは空の類概念は常に+Cであり、少なからずコミュニケーションの質には誤差が生じ、その相手は対人だけとは限らないのがここに潜在的に含まれる最も恐ろしい危険性の一つである。すなわち、対話の相手には自分自身も含まれるという意味がある。

ここで大事なこととして、私はすべての人にこの方法を勧めているわけではない。この文章にたどり着いたあなたに対して「見込みを込めて」薦めているのである。その点をしっかりと感じ取ってもらいたい。

具象抽象の本質的な作業を、具体から抽象へ、転移または変換によって意味全体として具体を納得させながらその中身は抽象のみを示す作業を具現化していくことを提案した。そこで、抽象的な言語の使用に関する一番の誤解は、次のことを正しく認識できない人が多いことである。抽象の所有は具体の最上表現であるという事実、そして抽象の運用能力が増すほどそれが結果として人間の成長と真の理解につながることになる。具体化とは真理を削る行為であり、具現化のためのドーピングであるのに対し、抽象化とは門を兼ねた生きた門番であり、具現化の唯一の正道である。

 

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました