第3部:東洋思想と形態共鳴—古来の知恵との共鳴点
イントロダクション:東西思想の創造的対話
科学と霊性。物質と意識。分析と統合。西洋と東洋。
これらの二項対立は近代以降の知の世界を特徴づけてきた。しかし現代において、この二元論的枠組みを超える統合的視点への渇望が高まっている。ルパート・シェルドレイクの形態共鳴理論は、西洋科学の方法論を用いながらも、その世界観においては東洋思想との深い共鳴点を持つ試みとして理解することができる。
前回までの考察で見てきたように、形態共鳴理論は「形態形成場」という非物質的な場を通じた時空を超えた情報伝達、「習慣としての自然法則」という動的進化観、「集合的記憶」としての種の経験蓄積など、現代西洋科学の主流パラダイムとは異なる世界観を提示している。
興味深いことに、これらの概念の多くは、数千年にわたって東洋の哲学的伝統の中で発展してきた世界観と驚くべき類似性を持っている。仏教の縁起思想や阿頼耶識、道教の気の概念、インド哲学のアカシャ記録、瞑想的実践を通じた直接知など、東洋の「古来の知恵」は形態共鳴理論と多くの共鳴点を持つ。
本稿では、形態共鳴理論と東洋思想の接点を探究し、両者の類似点と差異を詳細に検討する。また、西洋で長らく周縁化されてきた非物質的因果関係の概念が、東洋では主流の世界観として精緻化されてきた歴史的背景も探る。さらに、この東西の知的伝統の対話が、科学と霊性、論理と直観、分析と統合を調和させる新たな知の地平を切り開く可能性について考察する。
1. 仏教の縁起思想と形態場の共鳴性
縁起の概念:相互依存的実在観
仏教思想の根幹にある「縁起」(パーリ語:パティッチャ・サムッパーダ、梵語:プラティーティヤ・サムトパーダ)の概念は、すべての存在が相互依存的に生起するという教えである。釈迦は「これあるとき彼あり、これ生ずるとき彼生ず、これなきとき彼なし、これ滅するとき彼滅す」と説いた(南伝大蔵経, 相応部, 2.28)。
この縁起思想によれば、独立自存する実体は存在せず、あらゆるものは無数の条件の相互作用のネットワークの中に存在する。現代の仏教学者デイヴィッド・カラプリーは縁起を「相互依存的生起」(dependent co-origination)と訳し、「孤立した個体ではなく、関係のネットワークが実在の基本単位である」と説明している(Kalupahana, 1987)。
この縁起の視点は、シェルドレイクの形態場概念と深い共鳴点を持つ。シェルドレイクは形態場を「関係性のパターン」として定義し、個々の生物は種全体の「習慣」に参加していると考える。両者ともに、個体を独立した実体としてではなく、より大きな関係性のネットワークの一部として捉える点で共通している。
哲学者アラン・ワッツは『禅の道』(1957)で「西洋思想が『もの』に焦点を当てるのに対し、東洋思想は『関係』に焦点を当てる」と指摘した。シェルドレイクの形態共鳴理論もまた、西洋的方法論を用いながら、この東洋的な関係性中心の視点を科学的枠組みに導入する試みと見ることができる。
しかし、重要な違いもある。仏教の縁起思想は主に認識論的・実存的文脈で発展し、「苦」からの解放という実践的目標に向けられているのに対し、シェルドレイクの形態場概念は生物学的現象の説明という科学的文脈で発展している。また、縁起思想は「無自性」(独立した本質の不在)を強調するのに対し、形態場は特定の種やシステムに固有のパターンとしての「本質」を前提としている点で異なる。
阿頼耶識と集合的記憶としての形態場
大乗仏教、特に唯識思想において重要な概念が「阿頼耶識」(アーラヤ識、蔵識)である。阿頼耶識は「種子蔵」とも呼ばれ、すべての経験の印象が「種子」(ビージャ)として蓄積される意識の最深層を指す。これらの種子は将来の経験と行為の潜在的可能性を形成する(Waldron, 2003)。
唯識思想の祖、ヴァスバンドゥ(世親、4-5世紀)は『唯識三十頌』で、阿頼耶識を「一切種子識」と呼び、個人の過去の行為(カルマ)の印象が保存され、将来の経験を形作る基盤と説明した。この概念は個人的な無意識であると同時に、集合的な記憶の貯蔵庫としての側面も持っている。
シェルドレイクの形態場と阿頼耶識の概念には驚くべき並行性がある。両者とも:
- 過去の経験が蓄積される場または容器を想定している
- この蓄積が将来のパターン形成に影響を与えると考える
- 個人的経験と集合的経験の両方が関わるとする
- 物質的基盤に還元できない情報の貯蔵を想定している
仏教学者リンフォード・オルティー博士は「シェルドレイクの『形態場の記憶』と阿頼耶識の『種子』概念は、異なる文化的文脈から生まれながらも、情報の非物質的保存と伝達という共通の直観を表現している」と指摘している(Orsetti, 2011)。
また、シェルドレイク自身も『科学と霊性の復活』(The Rebirth of Nature, 1991)で、「東洋の哲学的伝統、特に仏教やヒンドゥー教の概念には、形態共鳴理論との興味深い類似点がある」と述べている。
しかし、両者の間には重要な概念的差異もある。阿頼耶識は主に意識の問題として概念化され、解脱という宗教的目標に関連づけられるのに対し、形態場は主に生物学的形態形成と行動パターンの説明として提示されている。また、阿頼耶識は個人の輪廻における連続性を説明する概念でもあるが、形態場は種レベルの共有パターンに焦点を当てている。
2. 道教の気の思想と形態場の概念
気の概念:エネルギーと情報の融合としての宇宙
中国思想において「気」(qì)は宇宙を構成する根本的なエネルギーであり、同時に物質と情報の性質を併せ持つ概念である。気は単なる物理的エネルギーではなく、形態を組織化する情報的側面も持つとされる。
漢代の思想家張衡は「気は天地の間に満ち、万物の中にある」と述べ、気が宇宙を満たし、あらゆる存在の内にあると考えた。北宋の哲学者張載は「太虚は気のみ」という有名な言葉で、宇宙の本質が気であることを主張した(Graham, 1986)。
この気の概念は、シェルドレイクの形態場と多くの共通点を持つ。両者とも:
- 物質世界を組織化する非物質的な「場」または「基盤」を想定している
- エネルギーと情報の両方の性質を持つとされる
- 特定のパターンや形態を生み出す組織化原理として機能する
- 宇宙全体に遍在すると考えられている
中国思想研究者ジョセフ・ニーダムは『中国の科学と文明』(Science and Civilization in China)で、「気の概念は西洋の場の理論に最も近い東洋の概念である」と指摘した(Needham, 1956)。
シェルドレイク自身も『七つの実験』(1994)で、「東洋の気の概念は、形態場が持つエネルギーと情報の両面性を先取りしている」と認めている。
しかし、両者の間には重要な差異もある。気の概念は宇宙論的・哲学的文脈から発展し、陰陽の相補性や五行説など中国思想の体系全体と結びついているのに対し、形態場は生物学的現象の説明という限定的文脈で提案された。また、道教では気の操作(気功など)を通じた実践的な修養法が発展したが、シェルドレイクの理論ではそのような実践的側面は強調されていない。
経絡システムと場の理論の並行性
中国医学における「経絡」の概念は、体内を巡る気のネットワークを表し、健康と病気を理解する基本的枠組みを提供している。経絡は解剖学的に同定できる物理的構造としてではなく、気の流れのパターンとして概念化されている。
黄帝内経』(紀元前2世紀頃)は「十二経脈、十五絡脈、奇経八脈」という経絡システムを詳述し、これらがどのように人体の生理機能を調整するかを説明している。このシステムは、物質的基盤を超えた「エネルギー・情報ネットワーク」として理解される。
経絡システムと形態場の概念には興味深い並行性が見られる:
- 両者とも物質的構造を超えた「場」または「ネットワーク」を想定する
- この場/ネットワークが生体システムの組織化と機能調整に関わるとする
- 健康は場/ネットワークの適切な調和と流れに依存すると考える
- 物質レベルの介入だけでなく、場/パターンへの直接的介入(鍼灸/形態共鳴)による治療の可能性を示唆する
医学人類学者テッド・カプチュクは『中国医学の知の体系』(The Web That Has No Weaver, 1983)で、「経絡の概念は物質的実体というよりも関係性のパターンとして理解すべきであり、その点でシステム理論や場の理論と共通点を持つ」と指摘している。
生物物理学者メイ=ワン・ホーは『生命の虹』(The Rainbow and the Worm, 1993)でさらに踏み込み、「生体システムにおける量子コヒーレンスの現象は、中国医学の経絡システムに対応する物理的基盤を提供する可能性がある」と主張している。
しかし、経絡システムと形態場の間には重要な違いもある。経絡は主に個体内のエネルギー・パターンに焦点を当てるのに対し、形態場は種全体の集合的パターンに関わる。また、経絡システムは数千年にわたる臨床経験から発展した実践的医療体系の一部であるのに対し、形態場は比較的新しい理論的構築である。
3. インド哲学における意識と形態場の共鳴
ヴェーダーンタ哲学のアートマンとブラフマン
インドのヴェーダーンタ哲学、特にアドヴァイタ(不二一元論)派において、個人の本質的自己(アートマン)と宇宙の根本原理(ブラフマン)は究極的に同一であるとされる。8世紀の哲学者シャンカラは「アートマンはブラフマンである」(アハム・ブラフマースミ)という『ウパニシャッド』の教えを体系化した。
この視点によれば、個々の意識は普遍的意識の一部分であり、個と全体は根本的に分離不可能である。西洋の哲学者アルドゥス・ハクスリーはこれを「永遠の哲学」(perennial philosophy)と呼び、多くの霊的伝統に共通する核心的洞察だと主張した(Huxley, 1945)。
この個と全体の不可分性という視点は、シェルドレイクの形態場の概念と共鳴する。形態共鳴理論では、個々の生物は種全体の形態場に参加し、その「記憶」を共有すると考える。両者とも、西洋近代の個体主義的・原子論的世界観を超え、個と全体の深い相互連関を認識している。
意識研究者スタニスラフ・グロフは『心の宇宙的ゲーム』(The Cosmic Game, 1998)で、「ヴェーダーンタ哲学のアートマン=ブラフマンの一元性と、シェルドレイクの個体と種の形態場の共有関係には、異なる文化的表現でありながら共通の洞察が見られる」と指摘している。
しかし、重要な違いもある。ヴェーダーンタ哲学は主に意識の本質と解脱の道に関心を持つ霊的・形而上学的体系であるのに対し、シェルドレイクの理論は生物学的現象の説明を主目的とする科学的仮説である。また、ヴェーダーンタは究極的には不二一元論(非二元)の立場を取るのに対し、形態共鳴理論は種に固有の形態場という多元性を前提としている。
アカシャ記録と集合的記憶としての形態場
神智学やインドの霊的伝統において「アカシャ記録」(Akashic Records)は、宇宙のすべての出来事、思考、感情が刻まれる宇宙的記憶の場とされる。「アカシャ」(ākāśa)はサンスクリット語で「空間」「エーテル」を意味し、古代インドの五大元素の一つである。
神智学者ヘレナ・ブラヴァツキーは『シークレット・ドクトリン』(1888)で、アカシャを「宇宙的記憶の貯蔵庫」と描写し、超感覚的知覚によってアクセス可能だと主張した。同様に、ルドルフ・シュタイナーも「宇宙のすべての出来事はアカシャに保存され、適切な意識状態によって『読む』ことができる」と述べている(Steiner, 1904)。
この「宇宙的記憶」としてのアカシャの概念は、シェルドレイクの集合的記憶としての形態場と驚くべき類似性を持つ:
- 両者とも物質を超えた「場」に情報が保存されると考える
- この保存された情報が現在と未来に影響を与えるとする
- この場は非局所的(時間と空間を超えた)性質を持つとされる
- 特定の状態や条件下でのみアクセス可能とされる
インドの物理学者・哲学者アマリク・チャタジーは『自然哲学の東西対話』(2012)で、「アカシャの概念は量子場理論やシェルドレイクの形態場理論と概念的共鳴点を持ち、物理学が未だ十分に探究していない『情報場』の領域を示唆している」と論じている。
シェルドレイク自身も『科学と霊性の復活』(1991)で、「ヒンドゥー教のアカシャの概念と形態場には類似性があるが、形態場はより特定的で種やシステムに固有のものであり、宇宙全体の記録というよりも特定のパターンの記憶に関わる」と述べている。
ここにも重要な違いがある。アカシャ記録は宇宙のすべての出来事を含む普遍的な記録とされるのに対し、形態場は特定の種やシステムに固有のものとされる。また、アカシャ記録は主に形而上学的・神秘主義的文脈で語られるのに対し、形態場は科学的仮説として提示されている。
4. 東洋における非物質的因果関係の伝統
西洋と東洋の因果概念の歴史的差異
西洋と東洋の思想伝統における因果関係の理解には顕著な違いがある。西洋では、アリストテレスの四原因説からニュートンの機械論的因果律へと発展する過程で、物質的・機械的因果関係が優位となった。特に近代科学革命以降、「効率因」(作用因)が重視され、物質とエネルギーの移動による因果関係が標準モデルとなった。
対照的に、東洋の伝統では非物質的・非局所的な因果関係の概念が中心的位置を占めてきた。中国の「感応」(ganying)の概念は、物理的接触なしに類似したものが互いに影響を与えるという考えに基づく。「天人相関」の思想は、宇宙的パターンと人間世界のパターンの間の共鳴を強調する(Henderson, 1984)。
インドでは「カルマ」(業)の法則が、行為とその結果の間の必然的連関を説明する非物質的因果律として機能してきた。カルマは単なる「因果応報」ではなく、意図と行為のパターンが微細なレベルで保存され、将来の経験に影響を与えるという複雑な概念である(Reichenbach, 1990)。
これらの東洋的因果概念は、シェルドレイクの形態共鳴による因果関係の理解と多くの共通点を持つ。特に「類似したものが共鳴する」という考え方は、中国の感応思想と形態共鳴の核心的メカニズムの両方に見られる。
科学史家ジョセフ・ニーダムは「東洋の感応思想と西洋の共感魔術の伝統は、近代科学によって排除されたが、場の理論の発展とともに新たな科学的理解の可能性が開かれつつある」と指摘している(Needham, 1956)。
シェルドレイクの形態共鳴理論は、この意味で西洋科学の方法論を用いながら、東洋的な非物質的因果概念を再評価する試みと見ることができる。
パラレルな発展:カルマの法則と形態的因果律
仏教とヒンドゥー教における「カルマ」の法則と、シェルドレイクの「形態的因果律」(formative causation)の概念は、パラレルな発展を示している。
カルマは単なる倫理的法則ではなく、宇宙の因果的秩序の基本原理として理解される。仏教哲学者ヴァスバンドゥ(世親)は『倶舎論』(Abhidharmakośa)で、カルマを「意図的行為が残す痕跡(種子)が、将来の経験の条件となる」と説明している。この過程は「業異熟」(vipāka)と呼ばれる。
シェルドレイクの形態的因果律も同様に、過去のパターンが「形態共鳴」を通じて現在と未来のパターン形成に影響を与えるというモデルを提示している。両者ともに、過去の行為や形態が「非物質的」に保存され、将来のパターンを形作るという理解を共有している。
比較宗教学者ヒューストン・スミスは『忘れられた真実』(Forgotten Truth, 1976)で、「東洋のカルマ概念と現代の形態場理論は、西洋の機械論的因果観では捉えきれない『情報的因果性』の重要性を指摘している」と論じている。
しかし、カルマの法則と形態的因果律には重要な違いもある。カルマは主に道徳的・倫理的文脈で発展し、個人の解脱または輪廻と関連づけられるのに対し、形態的因果律は主に生物学的形態形成と行動パターンの説明を目的としている。また、カルマは「意図」(cetanā)の役割を強調するが、形態的因果律ではこの側面はあまり強調されない。
5. 東洋の実践的知恵と形態共鳴
禅の「不立文字」と暗黙知としての形態共鳴
禅仏教の中心的教えの一つに「不立文字」(言葉に依らない)がある。これは書物や概念的理解を超えた直接体験を重視する姿勢を表す。13世紀の禅師道元は「坐禅は言語の枠を超えた身体的実践を通じて真理を体得する道」と説いた(Cook, 1985)。
この「言葉を超えた知恵」は、科学哲学者マイケル・ポラニーの「暗黙知」(tacit knowledge)の概念と共鳴する。ポラニーは『個人的知識』(1958)で、「我々は語れる以上のことを知っている」と主張し、形式化できない経験的・直観的知識の重要性を強調した。
シェルドレイクの形態共鳴理論も、種の「集合的記憶」や「暗黙知」としての形態場という考え方を提示している。言葉や明示的記号によらない知識の伝達という点で、禅の「以心伝心」(心から心への直接伝達)の考えと形態共鳴には並行性がある。
禅研究者デイヴィッド・ロイ・シン博士は「禅の不立文字の教えとシェルドレイクの形態共鳴は、ともに言語的・概念的フレームワークを超えた知識伝達の可能性を示唆している」と指摘している(Shin, 2007)。
シェルドレイク自身も『七つの実験』(1994)で、「科学的パラダイムは明示的知識だけでなく暗黙知としての『習慣』も含み、これは東洋の瞑想的伝統が長く認識してきた洞察と共鳴する」と述べている。
この並行性は、知識の本質と伝達に関する東西の対話の可能性を示している。しかし、禅の実践は主に個人の悟りという霊的目標に向けられているのに対し、形態共鳴理論は生物学的現象の科学的説明を目指すという違いがある。
ヨガの「サマーディ」と非局所的意識の可能性
インドのヨガ伝統において「サマーディ」(三昧)は、主体と客体の二元性を超えた統合的意識状態を指す。パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』(紀元前2世紀頃)では、サマーディは「対象との完全な一体化」と説明される。
この非二元的意識状態において、ヨガの伝統は「個人の意識が宇宙的意識と一体化し、時間と空間の制約を超えた知識が可能になる」と主張する。現代のヨガ哲学者B.K.S.アイアンガーは「サマーディにおいて、意識は個人的制限を超え、普遍的意識と共鳴する」と述べている(Iyengar, 1993)。
この拡張された意識の可能性は、シェルドレイクの非局所的形態場と意識の関係についての考察と接点を持つ。シェルドレイクは『感覚を超えた感覚』(The Sense of Being Stared At, 2003)で、テレパシーなどの異常心理学的現象を形態共鳴の枠組みで説明する可能性を探っている。
意識研究者アラン・コムズは『意識の放射』(The Radiance of Being, 1995)で、「非局所的意識の可能性に関するヨガの主張と形態共鳴理論の非局所的情報場の概念は、意識の新たな科学的理解への収斂を示唆している」と論じている。
両者とも意識の非局所的可能性を示唆するという点で共通しているが、ヨガはこれを直接的な精神的実践を通じて体験的に探究するのに対し、シェルドレイクのアプローチは科学的仮説と実験に基づいている。また、ヨガの伝統は意識の本質的非二元性を前提とするが、形態共鳴理論はそこまで踏み込んだ主張はしていない。
老荘思想の「道」と習慣としての自然法則
中国の道教、特に老荘思想における「道」(タオ)の概念は、宇宙の根本的な秩序原理を表す。『老子道徳経』の冒頭には「道可道、非常道」(道とは言えるものは、常の道ではない)という有名な一節がある。
タオは固定的な法則ではなく、絶えず変化し進化する動的プロセスとして理解される。『荘子』は「道は常に流れ、止まることを知らない」と述べている。この視点は、自然の秩序を固定的な「法則」ではなく、動的な「プロセス」として捉える。
シェルドレイクの「習慣としての自然法則」という革新的概念は、この道教的視点と驚くべき並行性を示している。シェルドレイクは『科学の幻想』(2012)で、「自然法則は永遠不変の数学的真理ではなく、宇宙の歴史の中で発展してきた習慣である」と主張している。
道教研究者リービ・シェイソンは「タオの概念とシェルドレイクの習慣としての自然法則の間には、自然の秩序を動的プロセスとして理解する点で本質的な共通性がある」と指摘している(Schipper, 1993)。
両者とも、自然を静的な「法則」の集合ではなく、動的に進化する「習慣」または「道」として捉える点で共通している。また、この視点はいずれも宇宙を生命的・有機体的プロセスとして理解する「有機体論的」世界観に基づいている。
しかし、道教のタオは主に哲学的・実存的・修行的文脈で発展したのに対し、シェルドレイクの習慣としての自然法則は科学的仮説として提示されている点で異なる。また、道教では「無為自然」(無為にして自然に従う)という修養法が強調されるが、シェルドレイクの理論ではそのような実践的側面はあまり強調されていない。
結論:東西の知的伝統の架け橋として
形態共鳴理論と東洋思想の比較検討は、これらが単なる表面的類似を超えた深い共鳴点を持つことを示している。両者は、物質還元主義を超えた全体論的視点、関係性を重視する存在論、非局所的・非物質的因果性の認識、そして意識と自然の深い連関という点で共通の地平を共有している。
もちろん、重要な違いもある。東洋思想の伝統は主に実存的・霊的実践を目的とし、直接体験を通じた知恵の獲得を重視する。一方、シェルドレイクの形態共鳴理論は科学的方法論に基づく仮説であり、経験的検証可能性を前提としている。また、東洋思想が多くの場合、究極的には非二元性や空性に至るのに対し、形態共鳴理論は種に固有の形態場という多元性を維持している。
しかし、これらの違いにもかかわらず、形態共鳴理論は東西の知的伝統の間の創造的対話を促進する可能性を持っている。シェルドレイクの試みは、西洋科学の方法論を用いながら、東洋的世界観の核心的洞察を現代的文脈で再解釈するものと見ることができる。
科学哲学者ケン・ウィルバーは『統合心理学』(Integral Psychology, 2000)で、「東洋の内的探究の伝統と西洋の外的探究の伝統の統合が、より包括的な知の体系への道を開く」と主張している。形態共鳴理論はまさにこのような東西統合の可能性を具体化するものと言えるだろう。
哲学者アラン・ワッツが『禅とは何か』(1957)で予言したように、「西洋の科学と東洋の知恵の真の統合は、単なる折衷ではなく、両者を超えた新たな視座の創造をもたらすだろう」。形態共鳴理論と東洋思想の創造的対話は、この新たな視座の萌芽かもしれない。
現代では、量子物理学や複雑系科学の発展は、東洋的世界観と西洋科学の接近を示唆している。物理学者フリッチョフ・カプラが『タオ自然学』(The Tao of Physics, 1975)で指摘したように、「現代物理学の最前線は、古代東洋の直観的洞察と驚くべき収斂を示している」。
形態共鳴理論はこの収斂のプロセスの一部として理解することができ、科学と霊性、分析と統合、論理と直観を調和させる新たな知の地平を開く可能性を持っている。この理論が投げかける根本的問い—「生命とは何か」「意識とは何か」「自然法則とは何か」—は、東西の知的伝統が共に探究してきた普遍的テーマであり、その創造的対話は21世紀の知的挑戦の中心となるだろう。
第4部では、形態共鳴理論と現代物理学の接点に焦点を当て、量子力学、場の理論、複雑系物理学などの観点から理論の科学的基盤を検討していく。シェルドレイクの「非物質的形態場」という概念が、現代物理学の枠組みでどのように解釈され、検証されうるのかを探っていく予定である。
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