第7部:日本農薬政策の従属化メカニズム:TPP・貿易圧力と規制緩和の構造分析
「世界の農薬の草刈り場」はいかにして形成されたか
なぜ日本は「世界の農薬の草刈り場」と呼ばれるような状況に陥ったのだろうか。単なる規制の甘さだけでは説明できない、もっと構造的な要因があるのではないだろうか。
TPP交渉の過程で何が起きたのか、日米経済調和対話でどのような要求が出されたのか、そしてグリホサートの残留基準値が小麦で6倍も緩和された背景を詳しく検討していこう。
農薬政策の従属化メカニズム:分析的枠組み
この現象を理解するために、「農薬政策の従属化メカニズム」という分析的枠組みで整理してみよう。これは、国内の食品安全政策が国際貿易圧力によって段階的に外部依存化されていく過程を捉える概念的ツールとして考えられる。
このメカニズムには三つの構成要素がある。
第一に「制度的従属化」(TPPなど国際協定による政策選択肢の制約)、
第二に「経済的従属化」(食料自給率38%という構造的脆弱性が交渉力を削減)、
第三に「政策的従属化」(科学的評価より貿易円滑化を優先する意思決定構造)である。
日米経済調和対話:農薬規制緩和の青写真
2011年の日米経済調和対話で、米国が日本に提示した要求の具体的内容を見ると、この従属化メカニズムの起動プロセスがよくわかる。米国は「日本の最大残留基準値設定に関わる農薬の審査、農薬の収穫後利用に関わる枠組み、基準値違反に対する執行政策など、未解決の農薬関連の問題に対処する」ことを求め、「国際的基準を参照すべきだ」として日本独自の基準を認めない考えを示した。
この要求の背景には、太平洋横断輸送における商業的ニーズがあると考えられる。ポストハーベスト農薬の残留基準値設定の柔軟化、違反時の回収・廃棄命令の判断基準緩和といった具体的要求は、「カビ防止のため、より濃い目に使いたい」という米国側の商業的要請を反映しているものと推察される。
グリホサート基準値緩和:従属化の実証事例
この従属化メカニズムが最も明確に現れたのが、グリホサートの残留基準値緩和だった。2017年12月、厚生労働省は小麦の基準値を5ppmから30ppmへと6倍緩和した。この緩和が「科学的安全性評価」ではなく「貿易円滑化」を主たる理由として実施されたことが、審議会資料から読み取れる。
興味深いのは、同時にエンドウマメは3ppmから0.2ppmに、豚肉・牛肉は0.1ppmから0.05ppmに厳しくされた品目もあることだ。しかし、これらの変更が注目されることはほとんどない。基準値の選択的な緩和と厳格化のパターンには、貿易上の考慮が強く影響している可能性がある。
パラコート継続使用:国際的孤立の深刻化
パラコートの事例は、日本の農薬政策の特異性をより鮮明に示している。パラコートは35mg/kg程度で致死量になると考えられ、5%製剤であっても約40mL程度を服用すると死に至る計算で、大さじ3杯より少ない量という極めて高い毒性を持つ。
2000年代以降も日本国内の農薬中毒による死亡者の約40%をパラコートが占めているという現実は深刻だ。世界的には段階的禁止が拡大する中で、日本は使用を継続している。この継続使用の背景には、国内農業界の要請と規制当局の判断があると考えられるが、国際的な孤立は深刻化している。
TPP協定の構造的制約:「科学的根拠」の政治的解釈
TPP協定における農薬関連条項は、農薬規制の従属化を制度化する仕組みとして機能する可能性がある。「科学的根拠に基づく」基準設定が義務付けられているが、この「科学的根拠」の解釈において、「国際的に調和した基準の採用」が重視される傾向がある。
実質的に、これは「最も緩い基準への統一」圧力として作用する可能性があり、日本の食品安全基準がTPP参加国中の最低水準に引き下げられる構造的圧力となりうる。食料自給率38%という現実が、この圧力に対する抵抗力を削減している。
「受容可能リスク」の外部決定
この分析から見えてくるのは、日本の「受容可能リスク」の定義が、もはや国内だけでは決定されていない可能性だ。科学的データは同じでも、その解釈と政策への反映は、国際貿易の力学によって大きく左右されている。
「規制のダンピング」という現象も見逃せない。EU禁止農薬が日本に集中的に輸入される構造は、国際的な規制格差を利用した一種のダンピングとして理解できる。この現象の規模や詳細な実態については、さらなる調査が必要だが、構造的問題として認識する必要がある。
科学的評価の政治的構築性
内閣府食品安全委員会の「リスク評価」と厚生労働省薬事・食品衛生審議会の「リスク管理」の分離システムは、表面的には科学的客観性を担保する仕組みに見える。しかし実際には、前者で「安全性に懸念」とされた農薬が後者で「使用継続」と判断される事例が報告されている。
この現象は、科学的評価と政治的判断の境界が曖昧になっていることを示している。「科学的根拠に基づく」という表現が政策の正当化に使われているが、実際には科学的不確実性の政治的解釈が政策決定を左右している可能性がある。
民主的ガバナンスの構造的課題
最も深刻なのは、この従属化プロセスが十分に民主的統制下に置かれていない可能性があることだ。TPP交渉の過程で農薬規制がどのように議論されたのか、日米経済調和対話での要求がどのように政策に反映されたのか、これらのプロセスの透明性には改善の余地がある。
農薬政策に影響を与える利害関係者(農業生産者、化学企業、消費者、環境団体)の影響力格差も課題として指摘できる。日本の場合、農業生産者と化学企業の発言力が相対的に強く、消費者・環境団体の影響力が限定的である可能性がある。
農薬政策の再主権化に向けて
では、この従属化メカニズムからどのように脱却できるのだろうか。「農薬政策の再主権化」という概念的視点で考えてみたい。
第一に、食料自給率の向上を通じた交渉力の回復が重要だ。38%という低い自給率が交渉における大きな制約となっている。
第二に、科学的評価と政治的判断の境界を明確化し、価値判断のプロセスを民主化する必要がある。
第三に、農薬政策における利害関係者間のパワーバランスを是正し、消費者・環境団体の発言力を強化することが重要だ。
政策主権の回復可能性
農薬政策の従属化メカニズムが示しているのは、グローバル化した世界における国家主権の変容だ。形式的には独立国家として政策決定を行っているが、実質的には国際貿易の力学に従属している側面がある。
しかし、この現実を直視することから、真の政策改革が始まる。前章で提唱した「参加型リスク評価」のような新しいガバナンス手法を導入し、科学的知見と社会的価値判断を適切に統合する仕組みを構築することで、農薬政策の再主権化は可能だと考えている。
重要なのは、「客観的科学」という理想を超えて、科学的評価の政治的・社会的構築性を認めることだ。その上で、多様な利害関係者が対等に参加し、透明性の高いプロセスを通じて社会的合意を形成する。そのような民主的な科学技術ガバナンスの構築が、農薬政策のみならず、現代社会の様々な科学技術政策において求められているのではないだろうか。
参考文献
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注記
本文献リストは、記事作成時点で確認可能な公開資料に基づいて構成されています。政策文書や統計データについては、各機関の公式ウェブサイトから入手可能です。理論的基盤となる学術文献については、国際的に評価の高い査読済み論文や書籍を中心に選択しています。
記事中で提示された分析的枠組みは、これらの既存研究を統合的に理解するための概念的ツールとして著者が構築したものであり、今後の実証研究による検証が期待されます。
注記
本記事で提示された「農薬政策の従属化メカニズム」「農薬政策の再主権化」「参加型リスク評価」は、著者による分析的枠組みであり、既存の政策分析や国際政治経済学の知見を統合的に理解するための概念的ツールとして提示されています。これらの概念は学術的に確立されたものではなく、今後の研究による検証が必要です。
記事中の政策過程や意思決定メカニズムの分析は、公開されている資料に基づく推察を含んでおり、すべての因果関係が実証されているわけではありません。農薬政策の複雑性と多面性を理解するための一つの視点として提示されています。