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他人にかける言葉によって自分の人生を一発で否定する方法

私たちは著作物に対して

真似した・されたの水掛け論を展開しがちです。

しかし、それをあえて狭い視点で見れば、

説明の時に使われる「私は」や「あなたは」といった主語だって多用されますよね。

 

しかしそれらの言葉に対して真似しただの真似されただのということは

誰一人として議論さえしません。

そこにある感情とは何なのでしょうか?

おそらくそれは、希少性と前時代的所有欲なのでしょう。

そして、そこには私たち一人一人の人間としての寛容さの違いが影響しています。

もっとオープンにしていくことが発展に繋がることに気づけない人もいるためです。

 

狭い視点で考えたのは「同じ」であることを再認識するためです。

大きさは違っても形が同じであれば、

その枠組みに応じて私たち自身が適応することができると考えたからです。

人類が持つ大きな利点の一つに可塑的があることは間違いありません。

寛容さの違いも可塑性の一つです。

 

生物史として我々の繫栄が短いものだとしても、

高度な生活基盤と、情報を共有・閲覧できるネットワークシステムがあれば、

同じ表現や似た表現を探すことは容易になるし、目に付く可能性も飛躍的に上がります。

そこで本来感情的なことに対抗手段となり得るのが

人間の可塑性であるはずなのです。

 

私たちが言語という一定のルールに基づいて解釈をする限り、

条件として必ず一致してしまうことは出てきます。

被らない方が無理です。

しかし誤解しないでいただきたいのは

被ることを推奨しているわけではないということです。

私自身ブログで無から有を創り出すのにはやはり大きな力を使います。

しかしホームページでも述べている通りなのですが、

そこで新たな知見を得て、人というものに興味を持った時、

そこを参考にして実践していくことこそが

一人一人の幸福の実現に近づくことになると思うのです。

よく言われるように幸せの価値が人それぞれ異なるのであれば、

後はやってみるしか選択肢は残されていないのです。

 

学校では「教科書」を勉強の参考にするという旧石器時代のようなやり方で

ずっとやり方に変更はなく今に至ります。

 

初等教育では研究と勉強の違いを明確にしないで「勉強」をしています。

教科書に載っている内容を勉強していることは

研究の追体験であり、真似をしていることと認識している生徒は少ないでしょう。

だから注意として、勉強をしても

「あなたには何も生まれていないのだよ」

ということを理解し、そこから

「では、それを知ってどう思った?それを知ってあなたはどうするの?どう活かすの?」

ということこそが最大の娯楽である経験をさせてあげたいはずなのです。

 

本質的に、現代までの大多数の大人たちは、「真似の文化」で

学校を卒業しているのです。

 

それを真似するな!!というのであれば、

自身がシステムに組み込まれて過ごしたおよそ20代までの人生の全て否定することになります。

私には、自身の積み上げてきた時間を簡単に否定できるほど

人間というものは強くないように思います。

と、すれば考えられることは一人一人が自分の人生や、

自分が成すべきことについて多くの時間を費やし、

考えを巡らせていないのだと結論付ける他ないでしょう。

 

矛盾するように聞こえるかもしれませんが

何度も言うように被ることを推奨はしていないのです。

しかし、私自身、考えを巡らせ続けてなお思うのは、

やはり、真似をしていくことは効率が良いということです。

どこの分野でも、何においてもです。

赤ちゃんを見ていても想像のつく話しでもあります。

世の中に寛容的な人が増えれば新時代を切り開くことへ繋がるでしょう。

どうすれば寛容さの違いを克服できるかを考えてみると、

もはやキーワードは言葉にしかないわけです。

 

私たちは未来について言語で考えます。

その考える言語は普段の使う言葉によって構成されます。

 

未来を変えていくには構成していく言葉を変えていかなければなりません。

そして構成していく言葉を変える時、今扱う言語がすべての根源となります。

外的要因を排除して自分自身の力のみを頼りにするしかない状況であれば、

または、変えていく意志があるのだとすれば、

自分で頭を使って言葉を創り出す以外では、誰かの発言を真似していくしかありません。

 

そういった意味では、言語の基本ルールが被ってしまうとしても、

他の装飾部分でさえも、誰かが発言した内容を拝借することになります。

結局、生きている限り、周りから影響を受け続けます。

しかも、影響を与えるものは無生物か、生物かは関係ありません。

このように考えてみると、

もはや私たちは影響を受けずにはいられない存在だとわかってきます。

私たちは引用で出来ていることを互いに認め合い、

次の段階へ進むべきです。

 

そうでなければ、

自身の積み上げてきた人生を一発で否定し、

同じ種類の仲間同士で足元を取り合うとても愉快な人生が待つことになります。

他人にかける言葉によって自分の人生を一発で否定することになるというのは

結局のところどんな言葉でも起こりうるのです。

それは影響を受けるからです。

自分が受けるように相手も受けます。

相手のバックグラウンドがわからないのであれば尚更、

どの言葉が引き金になるかわかりません。

 

しかし逆に、

人間は影響を受ける存在であるからこそ、

自分が影響を与える側になれば周りはその色に染まっていきます。

そこさえわかっていれば引用してたくさん言葉の美しさを味わい、

たくさんの素晴らしい言葉を真似していくことで、

「真似した言葉」から、オリジナルの言語を生成していけば良いのです。

組み合わせは、ストックした数だけ増えていくことができますから。

 

あなた次第で、

「他人にかける言葉によって自分の人生を一発で否定する」

ことも、

「他人にかける言葉によって自分の人生を一発で肯定する」

こともできます。

そして、その逆も可能なのです。

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