第6部:農薬規制の政治経済学:科学と政治の構造的乖離
なぜ同じ科学が異なる結論を生むのか
同じ科学的データを見ているはずなのに、なぜEUでは禁止された農薬が日本では今も使用され続けているのだろうか。チアクロプリドもクロルピリホスもパラコートも、それぞれ興味深い事例を提供してくれる。
単純に「科学的根拠の違い」と言ってしまえばそれまでだが、実際にはもっと複雑な構造が存在している。この問題を「規制科学の政治的構築性」という視点で理解すると、見えてくる景色がまったく変わってくる。
科学的リスク評価と政治的リスク管理の分離メカニズム
現代の農薬規制システムは、表面的には「科学的リスク評価」と「政治的リスク管理」の二段階構造を採用している。理論的には、科学者が客観的にリスクを評価し、政策決定者がその結果を受けて社会的判断を下すことになっている。しかし、この分離は実際には機能していない。
興味深いことに、この分離の失敗パターンには一定の法則性がある。
概念的に整理すると、「評価の政治化」と「管理の科学化」という相反する現象が同時に起きていることが理解できる。
チアクロプリドの事例:生殖毒性データの解釈格差
2019年、欧州化学品庁(ECHA)とEFSAはチアクロプリドを生殖毒性カテゴリー1Bに分類した。この分類の科学的根拠を詳しく見てみると、確かに強力なデータが存在する。ラット・マウスでの多世代繁殖試験において、雄の精子数と精子運動性の低下、雌の妊娠率低下、胎児の発育遅延・奇形発生率の増加が統計学的に有意に認められている。
重要なのは、これらの影響が現実的な暴露濃度で観察されたことだ。欧州食品安全機関(EFSA)がこの結果を受けて「人の健康に及ぼす影響への懸念」を表明したのも理解できる。
しかし日本では、同じデータに基づきながら使用が継続されている。この判断の違いはどこから来るのだろうか。
クロルピリホス:疫学的証拠の政治的解釈
クロルピリホスのケースは、さらに複雑な様相を呈している。2011年のコロンビア大学疫学研究では、妊娠中のクロルピリホス暴露濃度と子どもの7歳時IQ値の間に統計学的に有意な逆相関が認められている。暴露量が1標準偏差増加するごとに、Full-Scale IQが1.4%(0.94-1.8点)、Working Memoryが2.8%(1.6-3.7点)低下するという結果だ。
この研究は、2006年の先行研究(妊娠中の臍帯血中濃度と3歳時の精神発達指数、7歳時の作業記憶・処理速度との関連を示した)を追認するものとして、国際的に高い評価を受けている。米国EPAは複雑な経緯を経て、2021年に食品使用を全面禁止したが、2023年に裁判所により部分的に覆され、現在は限定的な使用が継続されている。
ここで注目したいのは、疫学的証拠の解釈における国家間の違いだ。同じ研究結果を見ながら、米国とEUは大幅な制限に踏み切り、日本は使用継続を選択している。これは単純な科学的判断の違いを超えた何かがあることを示唆している。
パラコートの世界的禁止動向と日本の「孤立」
パラコートの事例は、最も劇的な対比を見せている。2007年EU、2017年中国(段階的禁止開始)、2019年台湾という段階的禁止拡大の中で、日本は使用を継続している。現在、70カ国以上がパラコートを禁止している。
禁止理由は明確だ。第一に人体への急性毒性(致死量10ml程度、解毒剤なし)、第二に環境残留性、第三に非標的生物への影響である。
特に深刻なのは、パラコートによる自殺が多発していることだ。韓国、スリランカ、台湾では禁止後に農薬自殺がそれぞれ46%、50%、37%減少し、全体の自殺率も韓国とスリランカで17%、21%減少している。この状況を他国と比較すると、日本の規制哲学の特異性がより鮮明になる。
規制哲学の三類型:予防・確実性・経済
この現象を理解するために、「規制哲学の三類型」という枠組みで整理してみよう。
・EU型「予防原則」は、不確実性下でも予防的措置を講じる。科学的証拠が完全でなくても、潜在的リスクが示唆された段階で規制に踏み切る。これは「疑わしきは禁止」の論理だ。
・米国型「科学的確実性重視」は、明確な因果関係が証明された後に規制する。証拠の質と量に厳格な基準を設け、それをクリアした場合のみ規制に踏み切る。「確実でなければ規制せず」の論理である。
・日本型「経済優先」は、貿易・産業への影響を重視する。科学的懸念があっても、経済的影響を慎重に検討し、代替手段の確保や産業調整を優先する。「経済影響を最小化」の論理だ。
「受容可能リスク」の社会的構築
興味深いのは、どの国も「科学的根拠に基づく」と主張していることだ。しかし実際には、「受容可能リスク」の定義が社会的・政治的に構築されている。
この構築プロセスには、複数の利害関係者が関与している。農業生産者、化学企業、消費者、環境団体それぞれが異なる利害を持ち、その影響力格差が政策決定に反映される。日本の場合、農業生産者と化学企業の発言力が相対的に強く、消費者・環境団体の影響力が限定的であることが、規制の「緩さ」につながっている可能性がある。
科学的不確実性の政治的解釈
農薬のリスク評価には、必然的に不確実性が伴う。動物実験の結果をヒトに外挿する際の不確実性、長期暴露の影響を短期試験で評価する際の不確実性、複合暴露やカクテル効果の不確実性など、挙げれば切りがない。
重要なのは、この不確実性の政治的解釈だ。同じ不確実性を前にして、ある国は「安全性が証明されるまで使用禁止」と判断し、別の国は「危険性が証明されるまで使用継続」と判断する。この判断の分かれ目には、科学的根拠以外の要因が強く働いている。
民主的科学技術ガバナンスの必要性
この分析から見えてくるのは、農薬規制における「客観的科学」の限界だ。科学的データは重要だが、それだけでは政策決定はできない。社会的価値判断、経済的考慮、政治的力学が必然的に介入する。
問題は、この介入プロセスが十分に透明化・民主化されていないことだ。科学的評価と政治的判断の境界が曖昧で、責任の所在も不明確になっている。
仮説的な枠組みとして、「参加型リスク評価」という概念がこの問題への一つの回答を提供してくれるかもしれない。専門家による科学的評価に加えて、多様な利害関係者が価値判断プロセスに参加し、透明性の高い議論を通じて社会的合意を形成する仕組みだ。
科学と政治の新しい関係性に向けて
農薬規制の国際比較が教えてくれるのは、「純粋な科学的判断」などというものは存在しないということだ。科学的知見は常に社会的・政治的文脈の中で解釈され、活用される。
この現実を受け入れた上で、どうすれば科学的根拠と社会的価値判断を適切に統合できるのか。この問いに対する答えは、民主的な科学技術ガバナンスの構築にあると考えている。
科学者、政策決定者、そして市民が対等な立場で参加し、透明性の高いプロセスを通じて合意形成を図る。そのような仕組みを構築することが、農薬規制のみならず、現代社会の様々な科学技術政策において求められている。
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