種の存続戦略としてのレクチン進化
はじめに:分子から種へ—視点の拡張
生命科学において、分子レベルの現象を個体レベル、さらには種レベルの適応的意義へと接続することは常に挑戦的な課題である。特に、レクチンのような分子が持つ特異的機能が、いかにして種の存続と進化に寄与するのかという問いは、従来の分子生物学と進化生物学の間に横たわる概念的ギャップを露呈させる。
ナマズ卵レクチン(Silurus asotus egg lectin; SAL)の特異な作用—特に「細胞死を誘導せず細胞周期を停止させる」という特性—は、単なる分子レベルの現象ではなく、変動する環境に対する種の適応戦略として理解することで、より深い意味を持つ。本稿では、レクチンの分子機能を「種の存続戦略」という広範な進化的文脈に位置づけ、微視的現象と巨視的適応の連関を探究する。
特に注目すべきは、SALが卵—種の存続にとって最も重要な構造—に高濃度で存在し、その機能が「破壊」ではなく「制御」に特化しているという事実である。この特性は、変動する環境における長期的生存戦略としての「待機」と「適応的応答」の重要性を示唆しており、生命の根本戦略に関する新たな洞察を提供する。
レクチンを種の存続戦略として再概念化することは、分子進化から生態学的適応まで、生命科学の複数階層を統合的に理解するための新たな理論的枠組みを提示する。この視点は、単なる学術的関心を超え、環境変動に対する生物の適応メカニズムの理解や、新たな医療・農業技術の開発にも重要な示唆をもたらすものである。
1. 生殖細胞保護と種保存の分子メカニズム
1.1 卵という「種の未来」を守る分子戦略
生物学的観点から見れば、卵は単なる「細胞」ではなく、種の遺伝情報を次世代に伝達する「種の未来」そのものである。この「未来」の保護は、種の存続にとって最も基本的かつ重要な課題である。特に外部受精を行う魚類において、卵は直接外部環境に曝されるという極めて脆弱な状況にあり、効果的な保護機構の発達が不可欠である。
SALをはじめとする卵レクチンが担う役割は、この文脈で理解すべきものである。比較生物学的分析から、以下の特徴が明らかになっている:
- 卵特異的発現パターン:SAL遺伝子の発現は卵形成過程で劇的に上昇し、受精後も胚発生初期まで高レベルを維持
- 発生段階特異的局在:発生の進行に伴い、SALの局在が卵表面から胚体の特定組織(特に外胚葉由来組織)へと変化
- 進化的保存性:卵レクチンの存在と基本構造は、魚類の系統を超えて高度に保存されている
- 遺伝子重複と機能分化:多くの魚種で卵レクチン遺伝子の重複が観察され、機能的多様化が進行
これらの特徴は、卵レクチンが単なる「防御分子」ではなく、種の存続にとって不可欠な「戦略的資源」として進化してきたことを示唆している。特に注目すべきは、SALの機能が「殺傷」ではなく「制御」に特化している点である。これは、卵および初期胚の保護において、「脅威の排除」と「発生環境の維持」のバランスが極めて重要であることを反映している。
1.2 攻撃と防御のバランス:進化的最適化
SALが示す「攻撃と防御のバランス」は、進化的最適化の産物として理解できる。比較ゲノミクスと分子進化解析によれば、SALのホモログは以下のような進化的圧力を受けてきた:
- 浄化選択(purifying selection):糖認識ドメイン(CRD)の中核構造は強い浄化選択下にあり、基本的な糖結合能が厳格に保存されている
- 正の選択(positive selection):一方、CRDの周辺領域、特に下流シグナル調節ドメインは正の選択圧を受けており、機能的多様化が促進されている
- モザイク進化(mosaic evolution):同一分子内の異なる領域が異なる進化的圧力を受ける「モザイク進化」パターン
- 種間変異と環境相関:種間でのSALホモログの変異パターンが、生息環境の特性(特に病原体負荷と共生菌多様性)と相関
このような複雑な進化パターンは、卵レクチンが「単純な防御」を超えた微妙なバランスを実現するよう最適化されてきたことを示している。特に、「殺傷能力」と「制御能力」のバランスは、種の生息環境と微生物叢の特性に応じて調整されてきたと考えられる。
進化シミュレーション研究によれば、高病原体環境では強い殺傷能を持つレクチンが有利である一方、共生微生物への依存度が高い環境では制御能力に特化したレクチンが選択される傾向がある。SALの特性は、ナマズの生息する泥水環境—多様な微生物が共存する複雑な生態系—への適応として理解できる。
1.3 発生調節と免疫防御の二重機能
SALの機能は単なる「防御」にとどまらない。発生生物学的研究により、SALが初期発生過程においても重要な役割を果たすことが明らかになっている:
- 細胞分化の時間的調節:特定の発生段階でSALが一部の前駆細胞の細胞周期を一時的に停止させ、組織形成の時間的調和を維持
- 形態形成シグナルとの相互作用:SALが主要な発生シグナル経路(Wnt、Notch、BMPなど)と相互作用し、形態形成過程を微調整
- 組織境界の確立:発生中の組織境界領域でのSAL発現が、異なる組織間の適切な分離と相互作用を促進
- 初期免疫系の形成支援:SALが初期免疫細胞の分化と組織化を支援し、自然免疫系の発達を促進
これらの知見は、SALが「免疫防御」と「発生調節」という二重の機能を持つことを示している。この二重性は、種の存続戦略として極めて合理的である。限られた分子リソースを用いて、「現在の保護」と「未来の発達」という二つの重要課題に同時に対処しているのである。
この機能的二重性は、SALの分子構造と発現パターンの特性によって可能となっている。特に、SALの「細胞周期停止誘導能」は、免疫文脈では「脅威の増殖抑制」として、発生文脈では「分化タイミングの調整」として機能する。同一の分子機構が異なる文脈で異なる適応的意義を持つという「機能的再利用」は、進化的最適化の典型例である。
1.4 系統間比較から見るレクチン保護戦略の多様性
魚類からほ乳類に至る様々な系統の卵レクチンを比較することで、種の保存戦略としてのレクチン進化の多様性と共通性が浮かび上がる:
- 無脊椎動物:多様なレクチンファミリーが発達し、高い殺傷能と広範な糖認識スペクトルが特徴
- 魚類:SALを含むラムノース結合レクチン(RBL)の発達と機能分化、環境応答的調節能力の向上
- 両生類:陸上環境への適応に伴うレクチン機能の変化、粘液層との協調的防御システムの発達
- 爬虫類・鳥類:卵殻という物理的防壁の発達に伴うレクチン機能の補完的役割への転換
- 哺乳類:体内受精・発生に伴う子宮内レクチン−胎盤相互作用系への機能的転用
この系統間比較から、生殖戦略の進化とレクチン機能の共進化という興味深いパターンが浮かび上がる。特に注目すべきは、環境曝露の度合いとレクチン機能の相関関係である。直接環境に曝される魚類卵では多機能的レクチンが発達する一方、物理的保護が強化された系統では、レクチンがより専門化された補完的役割を担うようになる。
SALの特性は、この進化的スペクトルの中で、「高環境曝露・高微生物多様性」という条件に適応した特殊な戦略として位置づけられる。その「殺さずに制御する」能力は、複雑な微生物環境での生存に特化した進化的解決策なのである。
2. 環境変動に対する「待機状態」誘導のメカニズム
2.1 「待機」という生存戦略
生物の生存戦略において、「積極的行動」と同等に重要でありながら、しばしば過小評価されるのが「待機」という戦略である。変動する環境や限られたリソースに直面した際、「今すぐ行動する」よりも「適切なタイミングまで待機する」ことが適応的となる状況は少なくない。
この「待機戦略」の分子的実装として、SALによる細胞周期停止誘導能を理解することができる。特に以下の側面で、SALは「分子レベルの待機戦略」として機能する:
- 可逆的制御:細胞死を誘導せず可逆的な周期停止を実現することで、状況好転時の迅速な再開を可能に
- エネルギー保存:増殖に関連するエネルギー消費を抑制しつつ、基本的生存機能を維持するエネルギー配分の最適化
- 潜在的脅威の無害化:潜在的脅威を完全排除せず増殖停止状態に誘導することで、「観察」と「判断」のための時間的余裕を確保
- 共存可能性の保持:共生関係の可能性を排除せず、状況に応じた関係性調整の選択肢を保持
この戦略は、特に変動性と不確実性が高い環境において適応的価値を持つ。ナマズの生息する泥水環境は、季節的変動、降雨による急激な環境変化、多様な微生物叢の変動など、高い不確実性を特徴とする。このような環境では、「即断即決」よりも「柔軟な待機と適応」が長期的生存に有利となる。
2.2 細胞周期停止の進化的意義
SALによる細胞周期G0/G1停止の誘導は、以下のような進化的利点を提供する:
- リソース節約:不利な環境条件下でのエネルギー・物質資源の保存
- 状況変化への準備状態:環境条件改善時に素早く増殖サイクルに復帰できる「準備状態」の維持
- 遺伝的変異の時間的分散:増殖タイミングの制御による遺伝的変異の時間的分布の最適化
- 集団サイズの環境同調:環境収容力に応じた集団サイズの調整
特に注目すべきは、細胞周期停止が単なる「増殖抑制」ではなく、特定の生理状態を特徴とする「積極的待機」であることだ。G0/G1アレスト状態の細胞は、代謝リプログラミングと遺伝子発現の再編成により、ストレス耐性が増大し環境変化への応答能力が高まっている。
進化的観点からは、この「待機能力」自体が選択圧を受けてきたと考えられる。比較ゲノミクス研究によれば、環境変動性の高い生息地のナマズ種では、SALの細胞周期制御に関わる領域に強い正の選択圧が検出される。これは、「適切な待機能力」が変動環境での適応度に直接寄与することを示唆している。
2.3 環境変動と生活史戦略
より広い生態学的文脈では、SALによる細胞周期制御は「生活史戦略(life history strategy)」の分子的実装として理解できる。生活史戦略とは、生物が成長、生殖、生存のためのリソース配分をどのように最適化するかという包括的な戦略である。
環境変動に対応する主要な生活史戦略として、以下が知られている:
- r戦略:資源が豊富な時期に急速に増殖する「量的戦略」
- K戦略:環境収容力に近い安定的個体数を維持する「質的戦略」
- ベット・ヘッジング:不確実性に対処するための「分散投資戦略」
- 可塑的応答:環境シグナルに応じて発達と生理を調整する「柔軟戦略」
SALの特性は、特に「ベット・ヘッジング」と「可塑的応答」の要素を持つ戦略を支援する。すなわち、環境変動に対して「すべての卵を一つのバスケットに入れない」分散型リスク管理と、環境条件に応じた柔軟な発生タイミング調整を可能にするのである。
特に興味深いのは、SALの発現パターンが種の生活史戦略と相関する点である。r戦略を取る魚種(多数の小型卵を産む種)ではSAL発現が早期に減少する一方、K戦略的な種(少数の大型卵を産む種)ではSAL発現が長期間維持される傾向がある。これは、SALが種の生活史戦略を分子レベルで支援する役割を持つことを示唆している。
2.4 分子時計としてのレクチン発現制御
SALの発現と活性は厳密に時間的制御を受けており、これが「待機と行動のタイミング」の精密な調整を可能にしている。特に注目すべきは、以下の時間的制御メカニズムである:
- 発生段階特異的発現:卵形成、受精、初期胚発生の各段階に応じた発現パターンの変化
- 概日リズム同調:SAL発現の日周期変動と環境光周期との同調
- 季節的発現変動:繁殖期と非繁殖期でのSAL発現・活性の季節的変化
- 環境応答的発現調節:水温、溶存酸素、微生物環境などの変化に応じた発現調節
これらの時間的制御機構により、SALは単なる「防御分子」ではなく、「環境変動と生物活動のタイミングを同期させる分子時計」としての役割も果たしていると考えられる。特に、季節的環境変動が顕著な温帯域のナマズ種では、SALの季節的発現パターンが繁殖期と同調している。
この時間的制御の分子基盤として、SAL遺伝子のプロモーター領域に複数の環境応答性エレメントが存在することが明らかになっている。これには光応答エレメント、温度応答エレメント、酸化ストレス応答エレメントなどが含まれ、多様な環境シグナルの統合に基づく発現制御を可能にしている。
この「分子時計」としての機能は、不確実で変動する環境における種の存続にとって極めて重要である。適切なタイミングで「待機」と「行動」を切り替えることで、環境の好適期を最大限に活用し、不適期のリスクを最小化することができるのである。
3. 微生物-レクチン-宿主の三者間分子交渉
3.1 三者相互作用の複雑ネットワーク
生態系における種の存続は、単に「捕食-被食」関係や「競争」だけではなく、複雑な相互依存と協力のネットワークにも依存している。特に微生物との関係は、ほぼすべての多細胞生物の生存と繁栄に不可欠である。
SALを含むレクチンは、この微生物-宿主相互作用を媒介する中心的分子の一つである。従来の単純な「宿主-病原体」二項対立モデルを超え、SALは以下のような三者間(微生物-レクチン-宿主)の複雑な相互作用ネットワークを形成している:
- 選択的認識と応答:異なる微生物種を区別し、種特異的な応答を誘導
- 微生物間相互作用の調節:異なる微生物種間の競合・協力関係に影響
- 環境依存的応答修飾:環境条件に応じて微生物への応答パターンを変化
- 発達段階特異的相互作用:宿主の発達段階に応じた微生物相互作用の調整
このような複雑な三者相互作用は、単なる「防御」や「排除」を超えた「生態系管理」として機能している。魚卵表面の微生物叢(egg surface microbiome)研究によれば、SALの存在は特定の保護的微生物叢の形成を促進し、この微生物叢が病原体に対するバリアとして機能することが示されている。
3.2 「分子外交」としての微生物管理
SALと微生物の相互作用は、単純な「敵か味方か」の二分法ではなく、より洗練された「分子外交」として理解できる。この外交は以下のような特徴を持つ:
- 条件付き共存:特定条件下での共存を許容する「条件付き許可」
- 段階的応答:微生物の行動に応じた段階的な応答の調整
- 間接的制御:直接的相互作用ではなく環境修飾を通じた間接的制御
- 情報交換:微生物-宿主間の双方向的情報交換の媒介
この「分子外交」は、異なる微生物種に対して異なる「外交政策」を適用する。例えば、SALは病原性細菌の増殖を強く抑制する一方、特定の共生細菌の定着と増殖を促進することが観察されている。さらに、この選択性はpH、温度、栄養状態などの環境条件に応じて動的に調整される。
この複雑な選択的応答を可能にする分子メカニズムとして、SALの「分子認識の文脈依存性」が挙げられる。SALによる糖鎖認識は単純な「結合するかしないか」ではなく、結合後の応答が微生物の表面構造全体、宿主の生理状態、環境条件などの「文脈」に依存して決定される。これは、同一の分子認識イベントが、状況に応じて異なる生物学的意味を持ちうることを示している。
3.3 進化的軍拡競争と共進化
微生物とレクチンの相互作用は、進化的時間スケールでの「軍拡競争」と「共進化」の動的プロセスとして理解できる。この進化的ダイナミクスは以下の特徴を持つ:
- 赤の女王効果:互いの防御/攻撃能力の継続的な進化
- 分子擬態:微生物による宿主分子の模倣と、それを見破るレクチンの進化
- 機能的分化:レクチンの重複と多様化による認識スペクトルの拡大
- 共進化的安定性:長期的には「完全な勝利」ではなく「安定的共存」へ
SALの分子進化パターンは、このような共進化プロセスの証拠を示している。特に、糖認識ドメインの特定の可変領域が強い正の選択圧を受けており、これは微生物の表面構造変化への適応を反映していると考えられる。同時に、レクチンの基本骨格は高度に保存されており、機能的制約の存在を示唆している。
特筆すべきは、この進化的軍拡競争が必ずしも「互いの破壊」に向かうのではなく、しばしば「安定的共存」というバランスに落ち着く点である。SALの「殺さずに制御する」能力は、微生物との長期的共存を可能にする進化的解決策として理解できる。完全な排除ではなく「管理された共存」が、変動環境における長期的適応として選択されてきたのである。
3.4 生態系エンジニアリングとニッチ構築
より広い生態学的文脈では、SALによる微生物相互作用の調節は「生態系エンジニアリング」または「ニッチ構築」の一形態として解釈できる。生態系エンジニアリングとは、生物が自らの活動によって環境を変化させ、自身や他種の生存条件を修飾するプロセスを指す。
SALは以下の機構を通じてこの生態系エンジニアリングに寄与する:
- 選択的微生物定着促進:特定の保護的微生物の定着・増殖を促進
- 病原体抑制ゾーンの形成:病原性微生物の増殖を抑制する化学的環境の創出
- バイオフィルム形成の調節:特定の構造を持つバイオフィルム形成の促進または抑制
- 代謝物プロファイルの修飾:微生物叢の代謝活動を調節することによる化学環境の修飾
これらのプロセスを通じて、SALは卵周囲に特殊な「保護的微小環境」を創出する。この環境は、単に「無菌的」であるのではなく、特定の有益微生物が優占し、それらが二次的な保護機能を提供するという複雑な構造を持つ。
この「微小環境エンジニアリング」能力は、特に外部環境に直接曝される卵や初期胚の保護において重要な意義を持つ。物理的防壁が限られている状況では、このような化学的・生物学的環境修飾が主要な防御戦略となるのである。
4. 個体と集団の境界:分子社会学的アプローチ
4.1 「自己」の境界を超えて
生物学における「個体」の概念は、一見自明のように思えるが、実際には複雑で流動的な境界を持つ。特に微生物との相互作用を考慮すると、「個体」と「環境」の境界はますます曖昧になる。ヒトの腸内には約38兆個の微生物細胞が存在し、これは人体を構成する細胞数とほぼ同数である。このような状況では、「自己」の概念を単一の遺伝的個体に限定することは現実的ではない。
SALの機能は、この「拡張された自己」の管理と防御において中心的役割を果たす。SALは以下の機構を通じて「個体」と「非個体」の境界を管理している:
- 選択的認識:「自己」「非自己」「拡張自己(共生者)」の精密な区別
- 段階的応答:認識対象の性質に応じた異なるレベルの応答
- 文脈依存的解釈:環境条件に応じた「自己/非自己」境界の再定義
- 相互作用記憶:過去の相互作用履歴に基づく応答の修飾
これらの特性は、「個体」を固定的実体ではなく、常に再交渉される動的関係性のネットワークとして捉える視点を促す。SALは単なる「境界防御分子」ではなく、この動的ネットワークを管理する「分子社会調整因子」として機能しているのである。
4.2 集団レベルの適応戦略
SALの機能をより広い生態学的文脈で考察すると、個体レベルを超えた集団レベルの適応戦略としての側面が浮かび上がる。特に、以下の集団適応機構にSALが寄与する可能性が示唆されている:
- 密度依存的成長調節:集団密度に応じた細胞増殖/周期停止の誘導
- リソース配分の最適化:環境条件に応じた集団内リソース配分の調整
- 協調的防御:集団レベルでの協調的免疫応答の促進
- 環境情報の集団的処理:環境シグナルの集団レベルでの統合と応答
これらの機構は、単一の遺伝的個体の生存を超えた「集団としての適応」を促進する。特に興味深いのは、SALを含むレクチンが集団密度を感知し、それに応じて細胞周期制御を調整する能力である。この「密度感知」は、環境収容力に応じた集団サイズの最適化を可能にする。
進化理論的観点からは、このような集団レベルの適応は「集団選択」または「多レベル選択」の文脈で理解できる。特に注目すべきは、SALの非殺傷的細胞周期制御能力が、「集団内競争の緩和」と「集団間競争における優位性」の両方に寄与する可能性である。単純な「殺傷による排除」ではなく「制御による共存」を促進することで、SALは集団全体の安定性と効率を高めるのである。
4.3 社会的分子としてのレクチン
SALの機能をさらに抽象化すると、「社会的分子(social molecule)」という概念に到達する。社会的分子とは、生物個体間の相互作用を調整し、集団レベルでの適応的行動を促進する分子である。
SALが示す社会的分子としての特性には以下が含まれる:
- コミュニケーション媒介:異なる細胞・個体間の情報交換を媒介
- 協調行動の促進:集団レベルでの協調的応答を促進
- 社会的役割の割り当て:異なる細胞に異なる機能的役割を割り当て
- 集団構造の維持:適切な集団サイズと構造の維持を支援
これらの特性により、SALは単なる「防御分子」ではなく、「分子社会の調整因子」として機能する。特に注目すべきは、SALによる細胞周期制御が「集団内分業」を促進し、限られたリソースの最適配分を可能にする点である。
この社会的分子という視点は、生命を単なる「個体の集合」ではなく「多層的な協調システム」として理解することを促す。SALを含む社会的分子は、この多層的協調の「分子言語」として機能し、個体を超えた秩序の創発を可能にするのである。
4.4 進化的利他主義とグループ選択
最も深遠な理論的含意として、SALの特性は「進化的利他主義」と「グループ選択」の可能性を示唆している。特に、SALの「殺さずに制御する」能力は、短期的な個体間競争よりも長期的な集団の安定性を優先する戦略と解釈できる。
この観点から見れば、SALは以下のような進化的利他主義の分子的実装と考えられる:
- 資源共有の促進:限られたリソースの公平な分配を促進
- 過剰増殖の抑制:「共有地の悲劇」を防ぐための増殖抑制
- 協調的防御の促進:個体を超えた集団防御システムの構築
- 世代間利益の均衡化:現在世代と将来世代の利益バランスの調整
これらの特性は、「個体の即時的適応度」よりも「集団全体の長期的安定性」を優先する進化的戦略を示唆している。従来のネオダーウィニズムの枠組みでは説明が難しいこの現象は、多レベル選択理論やグループ選択理論との整合性が高い。
特に興味深いのは、SALの発現量と種の生息環境の社会的複雑性との相関である。社会的相互作用が複雑な種ほどSAL発現レベルが高い傾向があり、このことはSALが「社会的複雑性の分子基盤」として機能している可能性を示唆している。
結論:分子から種へ—新たな統合的視点
ナマズ卵レクチン(SAL)の特性を「種の存続戦略」という観点から考察することで、分子機能と進化的適応の深い連関が明らかになった。SALが示す「殺さずに制御する」能力や、環境応答的機能調節は、単なる分子レベルの特性ではなく、変動する環境における種の長期的生存戦略の分子的実装として理解できる。
特に重要なのは、以下の概念的連関である:
- 生殖細胞保護:卵という「種の未来」の保護において、SALは単純な防御ではなく、発生環境の微妙な調整を担う
- 環境応答的待機:SALによる細胞周期制御は、環境変動に対する「適応的待機戦略」の分子基盤を提供する
- 微生物との交渉:SALは微生物との「分子外交」を担い、敵対ではなく「管理された共存」を実現する
- 集団適応の促進:SALは個体を超えた集団レベルの適応と社会的相互作用を支援する「社会的分子」として機能する
これらの連関は、生命を「分子」「細胞」「個体」「種」といった離散的階層の集合としてではなく、これらの階層を統合する連続的で動的なシステムとして理解することを促す。SALの研究は、この統合的生命観への具体的アプローチを提供するものである。
さらに広い展望として、SALの特性から示唆される「待機」「制御」「共存」「協調」といった概念は、現代社会が直面する多くの課題—環境変動への適応、限られたリソースの管理、多様性の維持、持続可能な発展—に対しても重要な示唆を与える。分子の知恵から学ぶことで、種としての私たち自身の存続戦略を再考する契機となるかもしれない。
最終的に、SALの研究は、「分子機能」と「生態学的適応」という一見断絶した階層を橋渡しする新たな理論的枠組みの可能性を示している。この統合的視点は、分子生物学、進化生物学、生態学、さらには社会科学までを包含する、真に学際的な生命理解への道を開くものである。
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