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治療必要数(NNT)と共有意思決定で変わる患者の選択肢

第6部:診療現場と患者の間の情報格差 — 知らされざる選択肢の探求

見えない非対称性の解剖

「コレステロールが高いので薬を飲みましょう」

この一見シンプルな医師の言葉の背後には、患者には見えない複雑な情報世界が広がっている。絶対リスク減少率、治療必要数(NNT)、副作用の実際の頻度、生活習慣改善の量的効果比較—これらの情報は診療現場でほとんど共有されることがない。しかし患者の本当の「インフォームドコンセント」のためには不可欠な要素だ。

東京の大学病院待合室。72歳の田中さんはスタチン処方の紙片を手に不安げに座っていた。「この薬を飲み続けるべきか迷っています。筋肉痛がひどくて…でも医師は『薬をやめるとあなたは危険です』と言うだけで」。一方、処方した医師は言う。「統計や研究の細かい話をしても混乱させるだけです。私が最善と判断したことを伝えるのが責任です」

この場面は、現代医療における最も根本的かつ見過ごされている問題—医療情報の非対称性—を浮き彫りにしている。本稿では、脂質異常症治療を例に、診療現場で共有されない重要情報とその背景にある構造的問題を検証し、真の患者中心医療への道筋を探る。

1. 統計的理解の難しさ:数字が伝えない真実

1.1 相対リスクと絶対リスク:語られ方で変わる「事実」

脂質異常症治療の効果説明において、最も重要かつ誤解されやすい概念の一つが、相対リスクと絶対リスクの区別だ。同じデータを異なる形式で表現することで、全く異なる印象を与えることができる。

典型的なスタチン臨床試験の結果を考えてみよう。「スタチン治療により心血管イベントリスクが36%減少」という表現は印象的だが、これは相対リスク減少(RRR)を示している。同じデータを絶対リスク減少(ARR)で表現すると「100人に5年間投与して3人の心血管イベントを予防できる(ARR = 3%)」となる。さらに治療必要数(NNT)で表現すれば「1人の心血管イベントを予防するために33人を5年間治療する必要がある」となる。これらは同じデータでも、与える印象は劇的に異なる。

問題は、医療現場では最も印象的な「相対リスク減少」が使われることが圧倒的に多い点だ。2018年にオックスフォード大学研究チームが医師-患者コミュニケーションを録音分析した研究では、薬物療法の効果説明において相対リスク表現が絶対リスク表現の約7倍の頻度で使用されていた。しかも、リスク減少を説明する際には相対表現が、副作用を説明する際には絶対表現が好まれるという非対称性も観察された。

この問題はさらに複雑化する。リスク理解には「ベースラインリスク」の認識が不可欠だからだ。同じ36%の相対リスク減少でも、10年心血管リスクが20%の高リスク患者では絶対リスク減少は7.2%(NNT=14)だが、10年リスクが5%の低リスク患者では絶対リスク減少はわずか1.8%(NNT=56)になる。つまり、同じ「36%リスク減少」という言葉でも、個人にとっての実質的意味は大きく異なるのだ。

ハーバード大学のリサ・シュワルツ教授は「リスクコミュニケーションにおける倫理」について著名な研究を発表している。彼女の主張によれば、患者に対して相対リスクのみを伝えることは「技術的には虚偽ではないが、誤解を誘導する」情報提供であり、真のインフォームドコンセントを損なう可能性がある。

1.2 NNT(治療必要数)とNNH(害を生じる治療数):隠された天秤

医療介入の真の価値を理解するには、「何人治療すれば1人に効果があるか」(NNT)と「何人治療すれば1人に害が生じるか」(NNH)の両方を知る必要がある。しかし後者はほとんど伝えられない。

脂質異常症治療においてこれは特に重要だ。例えば、一次予防(心疾患のない人)におけるスタチン療法では、中等度リスク群で心血管イベント1件予防のNNTが約50(5年治療)である一方、筋肉症状発現のNNHは約10-20、糖尿病発症リスク増加のNNHは約100-200と推定されている。これらの数字は個人の意思決定において極めて重要だが、診療現場での説明はまれだ。

2020年のシステマティックレビューによれば、患者向け説明資料においてNNTが記載されていたのはわずか13%、NNHが記載されていたのは8%にすぎなかった。この情報欠如は偶発的ではなく、医療コミュニケーションの構造的問題を示している。

NNHの数値を伝えない理由として医療者がしばしば挙げるのは「患者を怖がらせたくない」「治療アドヒアランスが低下する」というものだ。しかしユーロサーベイランス誌に発表された研究では、リスクと利益の両方をバランス良く提示された患者は、長期的な治療継続率がむしろ向上することが示されている。透明な情報提供は一時的な不安を生じさせるかもしれないが、長期的な信頼関係と自律的な健康管理を促進するのだ。

もう一つの重要な視点は、個人のリスク許容度の多様性だ。同じNNTとNNHの比率でも、リスク回避的な人は治療を希望し、リスク受容的な人は治療を控えたいと考えるかもしれない。医療者が「最善」と考える判断基準は普遍的ではなく、患者の価値観によって「最適」な選択は変わりうる。

ノルウェーの研究グループは「共有型リスク評価ツール」を開発し、脂質異常症患者にNNT/NNH情報をグラフィカルに提示する試みを行った。興味深いことに、このツールを使用した患者群では、高リスク患者の治療受容率が上昇する一方、低リスク患者の治療拒否率も上昇した。つまり、透明な情報提供はより「適切な」治療選択を促進したのだ。

2. 副作用情報の伝達問題:語られない現実

2.1 臨床試験と実臨床の乖離

脂質低下療法の副作用についての患者への説明は、しばしば臨床試験データに基づいている。しかし、臨床試験と実臨床の間には重要な乖離が存在する。この「現実世界のギャップ」は患者にほとんど伝えられない。

スタチン療法を例にとると、主要臨床試験(4S, WOSCOPS, HPS, JUPITERなど)における筋肉関連副作用の報告率は1.5〜5%程度で、プラセボ群との差は1〜3%程度とされる。しかし実臨床でのコホート研究では、筋肉症状の発現率が10〜29%とはるかに高いことが報告されている。

この乖離はなぜ生じるのか?まず臨床試験では副作用が出やすい患者(高齢者、多剤併用者、腎機能低下者など)が除外されることが多い。また多くの試験では「導入期間」が設けられ、その間に副作用を示した患者が試験登録前に除外される。さらに試験での「副作用」定義は厳格で、「重度の筋痛で活動制限あり」などの基準が用いられ、軽度・中等度の症状は「副作用」としてカウントされないことがある。

さらに深刻なのは、臨床試験での副作用評価方法自体の問題だ。多くの試験では患者から自発的に報告された症状のみが記録される「受動的サーベイランス」が採用されている。一方、特定の症状について積極的に質問する「能動的サーベイランス」では副作用報告率が大幅に上昇することが知られている。例えば、STOMP研究では能動的質問法によりスタチン関連筋症状が約9〜10%と報告された。

トロント大学のリスクコミュニケーション研究グループは、この問題を「臨床試験ディストーション効果」と名付け、臨床試験環境で得られた副作用データが実臨床の患者経験を過小評価する構造的問題を指摘している。医療者が「エビデンスに基づいて」副作用は稀だと説明する一方で、患者が実際に経験する副作用が頻発する状況は、医療不信の源泉となりうる。

2.2 個人差と予測困難性:「あなた次第」の現実

副作用の発現には大きな個人差があり、「誰が」副作用を経験するかの予測は極めて困難だ。この不確実性もまた、患者には十分伝えられないことが多い。

脂質低下療法の副作用感受性には、遺伝的要因が大きく関与することが明らかになっている。例えば、スタチン関連筋症のリスクはSLCO1B1遺伝子多型と強く関連し、特定のアレルを持つ人ではリスクが最大4.5倍に上昇する。また一部のアジア系民族で頻度の高いABCG2遺伝子変異は、スタチン血中濃度と副作用リスクを増加させる。

薬力学的要因も重要だ。肝機能、腎機能、年齢、性別、体格、併用薬など、様々な要素が相互作用して個人の副作用リスクを形成する。例えば、同一用量のアトルバスタチンでも、小柄な高齢女性では大柄な若年男性に比べて血中濃度が2〜3倍高くなる可能性がある。

さらに、心理社会的要因も無視できない。「ノセボ効果」(副作用予期による実際の症状誘発)の影響や、メディア報道による副作用認識の変化なども関連するとされる。しかし、これらの複雑な相互作用を確実に予測するモデルは現時点では存在せず、結局のところ「試してみなければわからない」という現実がある。

患者がこの不確実性を適切に理解することは、治療決断において極めて重要だ。「この薬で副作用が出るかどうかは、実際に服用してみないとわかりません」という単純だが重要な事実が、患者に明示的に伝えられることは意外に少ない。

オランダの一般診療医ヤン・ド・メイは「治療の個別化」に関する論文で、「医学的不確実性の共有」の重要性を強調している。彼の主張によれば、医師が不確実性を認め、患者と共有することは「無知の表明」ではなく、むしろ誠実な医療関係の基盤だという。特に予防的介入では、副作用の不確実性と利益の不確実性を天秤にかける複雑な判断が必要であり、患者自身の価値観が決定的に重要になる。

3. 生活習慣改善の実効性:誰にでも効果があるとは限らない

3.1 エビデンスに基づく非薬物療法の現実

脂質異常症治療において「まずは生活習慣改善から」というのが標準的アプローチだが、その実際の効果サイズや成功確率に関する情報は、患者にあまり提供されない。

食事療法の効果を見ると、最も厳格な低脂肪食でさえLDLコレステロール低下効果は平均5〜15%程度とされる。「ポートフォリオ食」と呼ばれる植物ステロール、食物繊維、大豆タンパク、ナッツを組み合わせた特殊食は最大25〜30%のLDL低下効果があるとされるが、日常生活での長期遵守率は30%以下という報告もある。

運動療法についても、メタ分析では有酸素運動による脂質改善効果はLDL5〜7%低下、HDL4〜5%上昇、トリグリセリド10〜15%低下程度と報告されている。これらは臨床的に意義のある効果だが、多くの患者にとって薬物療法効果(スタチンによるLDL30〜50%低下など)より小さいのが現実だ。

重要なのは、これらの効果に大きな個人差があることだ。同じ介入でも、「良好応答者」は顕著な改善を示す一方、「不良応答者」では効果がごくわずかか皆無の場合もある。例えば、ノースカロライナ大学の研究では、標準的な低脂肪食に対するLDL応答が-40%から+5%まで大きく分散することが示された。この「応答多様性」の背景には、遺伝的要因や腸内細菌叢などが関与すると考えられている。

生活習慣介入の実際の成功率も患者に伝えられるべき重要情報だ。系統的レビューによれば、一般診療での生活習慣指導プログラムで臨床的意義のある脂質改善(LDL10%以上低下など)を達成できるのは参加者の20〜40%程度だという。

これらの数字は決して生活習慣改善の価値を否定するものではない。運動や食事改善は脂質以外の多くの健康利益をもたらすからだ。しかし、患者が現実的な期待値を持ち、個人差の可能性を理解することは、長期的な健康行動継続の鍵となる。過大な期待と現実のギャップは、むしろ挫折と行動放棄のリスクを高める。

3.2 行動変容の現実的困難:「わかっているけどできない」ジレンマ

医療者は「運動しましょう」「食事に気をつけましょう」と指導するが、これらのアドバイスが実行困難である現実的な理由についての理解は不足していることが多い。

行動変容の困難さは単なる「意志の弱さ」や「知識不足」ではなく、より構造的な要因に根ざしている。職場環境(長時間労働、休憩不足)、居住環境(運動施設へのアクセス、安全な歩行空間)、経済的制約(健康食品の高コスト)、社会的規範(外食文化、接待)、そして心理的負荷(ストレス、不安、抑うつ)など、多くの要因が個人の健康行動を制約している。

シカゴ大学の行動経済学者リチャード・セイラーは「行動変容の文脈的バリア」という概念を提唱し、個人的要因よりも環境要因が健康行動に与える影響の大きさを強調している。彼の研究によれば、環境デザインの小さな変更(ナッジ)が行動に大きな影響を与えうるという。例えば、職場の階段を目立たせるだけで使用率が63%上昇した例がある。

特に日本の社会文脈では、長時間労働文化や社会的飲食機会の多さが健康行動の大きな障壁となっている。厚生労働省の調査によれば、「健康的な生活習慣の最大の障害」として「時間不足」が62%、「社会的義務(接待など)」が42%挙げられている。

こうした現実を踏まえると、単に「もっと運動を」「食事に気をつけて」と助言するだけでは不十分だ。より効果的なアプローチは、患者の具体的な生活文脈を理解し、その中で実行可能な小さな変化から始める「文脈適応型行動変容」だとされる。例えば、運動時間確保が難しい人には「通勤経路の一部を歩く」「エレベーターでなく階段を使う」といった「組み込み型活動」が有効かもしれない。

ロンドン大学のスーザン・ミッチーは「行動変容の文脈モデル」を提唱し、能力(Capability)、機会(Opportunity)、動機(Motivation)の三要素(COMモデル)が揃って初めて行動変容が可能になると説明している。これを脂質管理に応用すると、単なる知識提供(能力)だけでなく、環境整備(機会)や心理的サポート(動機)を含めた包括的アプローチが必要だということになる。

医療者が行動変容の構造的難しさを理解し、患者と共有することで、より現実的で持続可能な健康行動計画が立てられる。「できないのはあなたの意志が弱いから」という暗黙のメッセージは、むしろ患者の自己効力感を損ない、行動変容の障壁となりうる。

4. 薬物療法の適応基準:誰が本当に薬を必要とするのか

4.1 リスクとベネフィットのバランスポイント

脂質低下療法、特に薬物療法の最大の論点は「誰が本当に薬を必要とするか」という問いだ。この判断には明確な科学的「正解」はなく、リスクとベネフィットのバランスポイントをどこに置くかという価値判断が伴う。

現在の脂質異常症ガイドラインは、年齢、性別、喫煙、血圧などの因子を組み合わせた心血管リスク推定に基づいて薬物療法の適応を判断するアプローチを採用している。しかし、このリスク閾値の設定は科学のみならず、社会的・経済的価値判断も反映している。

例えば、欧州心臓病学会(ESC)の2019年ガイドラインでは、10年心血管リスクが5%以上で薬物療法が推奨されるが、米国心臓協会(AHA)では7.5%以上、英国NICEガイドラインでは10%以上、日本動脈硬化学会ガイドラインでは絶対リスクよりも脂質値自体を重視する傾向がある。これらの違いは科学的不確実性の範囲内での「価値判断」の差異を反映している。

個人レベルでは、このリスク-ベネフィットのバランスポイントはさらに個別的なものになる。同じ10年心血管リスク10%でも、ある人にとっては「薬物療法が必要なほど高い」と感じられ、別の人には「薬のデメリットを受け入れるほど高くない」と感じられる可能性がある。

特に議論が分かれるのが「一次予防」(既存心血管疾患のない人)の低〜中リスク群だ。例えば、65歳の高血圧のない非喫煙女性でLDLコレステロール150mg/dLの場合、10年心血管リスクは5〜7%程度と推定される。この場合、スタチン治療で絶対リスク減少は1.5〜2.1%程度(NNT=48〜67)となる。一方で筋肉症状のリスクはNNH=10〜20程度とすると、純便益(net benefit)は個人の価値観によって大きく変わってくる。

コクランレビューの著者であるジョン・アブラムソンは「スタチンの有効性のエビデンスと医療的判断の間には曖昧な領域がある」と述べ、特に低〜中リスク群では「リスク評価に基づく共有意思決定」が重要だと強調している。

4.2 個人の価値観と治療目標の多様性

医療者と患者の間で見落とされがちな重要な側面は、「健康上の優先順位」が人によって大きく異なる点だ。脂質低下が最優先事項である患者もいれば、現在の生活の質や他の健康問題がより重要な患者もいる。

例えば、高齢者にとっては「余生の長さ」よりも「余生の質」が重要かもしれない。スタチンによる筋力低下や疲労感が日常活動や社会参加を制限するなら、それは統計的な心血管リスク減少と比較検討すべき重要な要素だ。実際、75歳以上の高齢者を対象とした質的研究では、回答者の過半数が「生活の質を損なう可能性がある予防薬は希望しない」と回答している。

また若年〜中年層でも、長期服薬への心理的抵抗感や副作用への懸念が強い場合は、より積極的な生活習慣改善を優先したいと考えるかもしれない。あるいは「今はリスクが低いので経過観察し、将来リスクが上昇したら薬物療法を開始する」という段階的アプローチを希望する場合もあるだろう。

これらの多様な価値観や優先順位を考慮した「患者中心の治療目標設定」は、単に「ガイドライン通りのLDL目標値達成」とは異なる。しかし現実の診療では、医療者の「専門家としての判断」が優先され、患者の価値観についての深い対話はしばしば欠如している。

スタンフォード大学のビクトル・モンタリは「患者にとって重要なものを尋ねることから始まる医療」という概念を提唱し、患者の価値観と文脈を考慮しない「疾患中心医療」の限界を指摘している。彼の提案する「目標志向ケア」では、患者と医療者が共に「この患者にとっての最優先の健康目標は何か」を特定し、それを中心に治療計画を構築する。

5. インフォームドチョイス:患者が知るべき選択肢と情報

5.1 現在の「インフォームドコンセント」の限界

医療における「インフォームドコンセント」は法的・倫理的要件として確立されているが、実際の診療現場では形骸化していることが多い。特に脂質異常症のような慢性疾患管理では、十分な情報提供に基づく意思決定はまれである。

現在の一般的なコンセントプロセスでは、医師が推奨する治療法とその主要な副作用について簡潔な説明があり、患者の質問に応じて追加情報が提供される程度だ。しかし、量的リスク情報(NNT/NNH)、代替治療の比較情報、エビデンスの質と限界、不確実性の範囲などは、通常伝えられない。

2019年にJAMA誌に発表された研究では、実際の診療での説明内容を分析した結果、「完全なインフォームドコンセント」基準(①病態説明、②推奨治療の利益と害、③代替治療の利益と害、④無治療選択肢の説明、⑤不確実性の説明)を満たしていたのは、わずか13%にすぎなかった。特に欠落しやすいのは、③代替治療と⑤不確実性の説明だった。

このパターンは脂質異常症診療でも同様だ。高コレステロール患者への説明内容を分析した研究では、リスク数値の定量的説明があったのは18%、生活習慣改善と薬物療法の直接比較があったのは23%、無治療選択肢の明示的説明があったのはわずか8%だった。

現在の「インフォームドコンセント」は、しばしば医師の推奨への「同意取得」プロセスとなっており、真の意味での「情報に基づく選択」(インフォームドチョイス)とはなっていない。医療人類学者のデボラ・ゴードンは、これを「儀式的同意(ritual consent)」と呼び、医療の法的要件を満たすための形式になっていると批判している。

5.2 共有意思決定への新たなアプローチ

より理想的な医療意思決定モデルとして、「共有意思決定」(Shared Decision Making, SDM)が提唱されている。これは医療者の専門知識と患者の価値観・選好を統合し、対等なパートナーシップで意思決定を行うアプローチだ。

SDMの実践には具体的なツールとプロセスが開発されている。例えば、「患者意思決定支援ツール」(Patient Decision Aids, PDAs)は、リスク情報を視覚的にわかりやすく提示し、各選択肢の利益と害を比較できるように設計されている。メイヨークリニックが開発した脂質管理用PDAでは、心血管リスク計算器、NNT/NNH情報、治療選択肢の比較表、そして「あなたにとって大切なこと」を明確にするワークシートが含まれている。

共有意思決定のもう一つの重要な要素は「選択オプションの明示化」だ。脂質異常症管理では、以下のようなオプションが考えられる:

① 薬物療法(用量・種類の選択含む) ② 生活習慣改善(食事・運動など、具体的アプローチの選択含む) ③ 薬物+生活習慣の組み合わせ ④ 経過観察(定期的再評価) ⑤ 代替療法(特定の栄養補助食品、漢方など)

重要なのは、④「経過観察」という選択肢も正当なオプションとして提示されること。特に低〜中リスク群では「今すぐ治療しない」選択肢も合理的な選択となりうる。

もう一つの革新的アプローチは「段階的意思決定」だ。脂質異常症のような慢性状態では、一度の診察で「永続的」な決断をする必要はない。その代わり、「トライアル期間」を設定し、実際の効果と忍容性を評価した上で継続判断を行うという方法がある。例えば「3ヶ月間スタチンを試し、効果と副作用を評価してから継続を検討する」というアプローチだ。

オレゴン健康科学大学が実施した研究では、この「トライアル期間」アプローチにより、患者満足度が向上し、長期的なアドヒアランスも改善することが示された。これは「取返しのつかない決断」という不安を軽減し、患者のコントロール感を高めるためと考えられる。

共有意思決定は決して医師の専門性を否定するものではない。むしろ、専門的知識と患者の文脈的知識を統合する、より高度な医療実践とも言える。オックスフォード大学のトリーシャ・グリーンハルによれば、SDMの理想的な姿は「医学的エビデンスと個人のストーリーが交差する場所での対話」なのだ。

結論:情報の民主化と医療の再人間化へ

本稿では、脂質異常症管理を例に、診療現場と患者の間の情報格差の実態と、それが医療の質と患者経験に与える影響を検証してきた。統計的理解の難しさ、副作用情報の伝達問題、生活習慣改善の実効性、薬物療法の適応基準、そしてインフォームドチョイスの実現に向けた課題と可能性について論じた。

医療情報の非対称性は、単なる「知識格差」ではなく、より根本的な医療モデルの問題を反映している。「医師が判断し、患者が従う」という伝統的モデルから、「情報と意思決定の共有」という新しいモデルへの移行は、医療技術や知識の進歩と同様に重要な「医療革命」と言えるだろう。

情報格差の解消は、決して医療者の専門性を否定するものではない。むしろ医療専門家の役割を「判断の代行者」から「情報の翻訳者・解釈者・パートナー」へと進化させるものだ。患者が直面する複雑な医療判断を支援するために、医療者の専門知識とコミュニケーション能力はこれまで以上に重要になる。

脂質異常症のような慢性状態の管理においては特に、患者自身が情報に基づいて主体的に健康決定に参加することが、治療の成功と長期的な健康アウトカムの鍵となる。数値で定義される「病気」という身体状態と、その人の生活、価値観、優先順位が織りなす複雑な文脈を結びつけるのは、患者自身の主体性以外にないのだ。

最終的に目指すべきは、「医療の再人間化」とも言うべき変革だ。数値化・標準化された現代医療に、個人の物語、価値観、文脈を取り戻すこと。そのためには、情報の透明性と共有、対等なパートナーシップ、そして何よりも人間同士の真摯な対話が必要だ。

理想的な医療モデルにおいて、脂質値のような「数値」は、人間的な対話と共有意思決定の「出発点」であって「終着点」ではない。数値から始まり、その人の固有の人生と文脈に至る旅路こそ、真に患者中心の医療の本質なのだ。

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