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翻訳格差:「本気で」自分自身に失望しているか?

昔次のように考えていた。

A・B、2人の人間がいたとき、細分化してよく深層を覗いていくと

最終的にはどうしても能力的であれ人間的であれ明確に両者を上下・優劣など2つに分けることができてしまう。

そしてこの強者側に区別された者は

弱者側に支配的影響(善悪ともに)を無条件に発し、

また意識的にそれらの緩和措置をとることができるが、

逆のパターン、すなわち弱者側はこれとは様子が少し異なる。

弱者側は自己抑制的無意識を無条件に発し、この緩和措置を意識的に解除することはできない。

しかしこの様子からは負の影響に関しては、

支配構造故に強者側が受けるマインド変化は微力であまり影響がないものだと思っていた。

物事とは得てして時間経過によってひらめきの可能性を上げていく。

最近、久しぶりに腹落ちしたと思えた世の本質をまた一つ発見できた気がしたが、それが上記の考え方の誤り部分の発見・改良であった。

見え方と見方と観る力

結論から述べる。

「すべての影響とは、意志のぶつかり合いによる揺らぎの勝者側へ振り切る」

この原則は通常の生活における場合の話であり、対等な友人といるとき、

ちょっと理不尽な上司といるとき、多人数グループで討論しているときのように

関係性の上下があってもなくても、また人数の多少なども関係なく

人と人が互いを認識している状態で有効なものであるという点である。

 

つまり、状況的に不利でも相手が自分を認識さえしていれば有効に発動しているし、

自分が圧倒的に上の立場で99%ではなく100%その時点で負けることがない状況でも、

友人と遊んでいる時のような何気ない一面でも

すべて刻々と勝者のジャッジが生まれ環境を捻じ曲げ続けているということである。

 

環境の支配権は、全ての個において解放されている。

支配に要する密度を過密にするほど対抗力が増す。

だからこそ言えるのは習慣を変えられないと嘆く自分も、

抗えないでいる欲望に対しても、

すべて「本気で」失望していないから反映している現実に過ぎない。

皆、欲望や目標に対しては頭を上向きにしているが、

なぜか失望や挫折に対しては顔をなるべく背けるよう努力する。

言い換えれば、そうした失望や挫折に対して、

本気で残りの人生をかけて絶望し続ける覚悟をその一瞬に込めていない。

環境の支配権は、使うかどうかはその者の人生の本気度によって裁量を持たされている。

欲望を渇望に変え、渇望を母とし、自分の奥底に眠る狂気を父として産み落とされた不可視の刹那的エネルギーが支配権の本質である。

この知覚可能世界内に存在する様々な知覚不可要素は、

現定説で挙げられるものの中において存在しないまがい物であるか、

残念ながら本当に知ることが叶わない類のものであるが、

一部の訓練された人間においては一瞬の直観として、もっと言えば、

感覚の二分法(ある・ない、合っている、間違っているなど)として帰結可能である。

これは、真理が一瞬だけ現実に体現した(溢れ出た)軌跡を漏らさず捉える能力ともいえ

る。

 

距離の深度の違いはあれ、間違いなく自分の周りに最も近くにいる人間が一人はいる。

そして人はその人間によって、究極的に可視可能な負の影響を与えられている。

つまりその影響はリアルタイムで知覚できる。

それでも世界が成り立っているのは、環境の支配権がすべての人にあるように、

負の影響に抗う自然治癒力をすべての人が持っているからである。

しかし、その効量と規模は皆異なる。

だからそのギャップを埋め合わせられないものが負の人生を歩むことになる。

これは宿命ではなく仕組みである。

仕組みであるから持たざる者も、

渇望した先で上手く仕組みを乗りこなす決意と共にすることで成功した事例が

この世では溢れることになる。

 

翻訳格差

科学に酔狂した現代人に最も足りていない力、失ってしまった力は、

真理性を信じることと、真理性の仕組みを体得することである。

その考えの段階で思索した事柄すべてが真であったとしても、

その思考を止めることでその存在を信じるいかなる理由も否定することになる。

思考は、我々という物質を介して存在するにも関わらず、

現実世界に台頭させるためにはその他の物質にも、場所にも依存することはない。

思考は、感覚の保持で100%の純度を保つが、たいていの場合

現実世界に言葉を用いて台頭させた瞬間に純度が確実に1%は落ちる。

しかも人や状況によっては20%~30%の純度にまで落ちてしまう場合もある。

私はこれを翻訳格差と呼ぶことにした。

 

言葉は、未使用の状態で純粋概念だが

使用することで消耗を生来的に併せ持つ実在として

ほとんどの場合現実世界に産み落とされる。

 

これが起きる原因は、思考は我々人間より高次のものであるからである。

 

言葉が自らの精神の複製品であることを理解すれば、

ちょうど材料と型抜きの関係と同じように

より大きなものが枠を通り形成された時、枠によるそぎ落とし部分が発生する。

 

「疑うよりも認識することの方が完全性が大である」

とデカルトが考察していたことは

言い換えれば、完全性がより大きい「認識」に重きを置く方が自然であって

客観的根拠であると同時に規定根拠とすべき事由として十分である

というわけであるから、ちょうどこの例の場合

疑うことより認識する方を型抜きとして選抜する方が優秀であると言っていることになる。

 

そして失望の仕方が大事だと仮定するならば、一つ訓練しなければならないことがあるとわかる。

それは、昨日の自分の翻訳能力より今日の自分の翻訳能力を微々たるものでも向上させる姿勢である。

翻訳格差は何も他人との比較だけではなく、もちろん自分自身にも当てはめることができる。

翻訳格差は気まぐれであり、流動的であり、絶対的能力差の要因でもあるからこそ、

現在の自身についている高い翻訳精度に対する信頼を持たなければならない。

 

失望に対してこれが必要なのは

本気の失望が、純粋概念の状態から言語化されて苦しい気持ちとして感じている段階でもうすでに本気でない可能性が高いからである。

この「失望」の翻訳前の原始的直観には、私の個人の感覚として勇気をもって言語を用いた翻訳のヒントを出すなら(もちろん個人によって違うかもしれないし、そもそも間違っているかもしれないが、現世界で定義される「失望」の原始的感覚はおそらく全人類共通で)「避けがたい苦痛を感じることや恥ずかしさとやるせない絶望」ではなく、「鎮圧的な膨張を伴うキメラ化(A sense of binge eating accompanied by tremendous expansion and a certain calmness)」

これが本気の失望の正体だと今の私は思っている。

純粋概念の思考というものを純粋な状態で言語化できている自信がなければ、

本気で向き合う際の疑心と、時間に従って出てくる抑えきれない方向性の不安に対処することは難しくなる。

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