第1部:免疫記憶の多層構造 – ワクチンはいかにして保護を構築するか
「ワクチンは効く」—この一見単純な命題の背後には、実に複雑かつ精巧な生物学的プロセスが存在する。ワクチン接種によって体内で起こる一連の免疫反応は、単に抗体が作られるという初歩的な理解をはるかに上回る、多層的で動的なシステムの活性化である。本章では、最新の免疫学的知見に基づき、ワクチンがいかにして防御免疫を構築するのか、その全体像を描き出す。
1. 免疫記憶の基本概念と再構築
ワクチンの本質は「免疫記憶」の人為的誘導にある。この免疫記憶とは、初回の病原体(またはワクチン)暴露後に免疫系が構築する長期的な「備え」のことで、再暴露時に迅速かつ強力な防御応答を可能にするメカニズムである。
従来、この記憶は主に「記憶B細胞」と「血中抗体」という二つの要素で説明されてきた。しかし現代免疫学は、この単純な二要素モデルでは説明できない複雑性と多様性を明らかにしている。
1.1 古典的記憶モデルの限界
ワクチン免疫学の古典的理解では、防御は主に中和抗体(neutralizing antibodies)に依存すると考えられてきた。中和抗体とは、病原体の感染力を直接阻害する抗体のことで、ウイルスや細菌の細胞への付着や侵入を物理的に妨げる。
この古典的モデルでは、ワクチン効果の評価も主に「血清抗体価」(血液中の特異的抗体濃度)で判断されることが多かった。しかし、この評価法には重大な限界がある。
第一に、抗体価と実際の防御能の相関は必ずしも完全ではない。例えば、ある種の感染症に対しては、血中抗体がほとんど検出されなくても防御が維持される場合がある。Plotkin(2020)のレビューによれば、破傷風や髄膜炎菌感染症では抗体価と防御に強い相関があるが、結核や百日咳などでは相関が弱いことが示されている[1]。
第二に、抗体の「質」は「量」と同等かそれ以上に重要である。抗体のアイソタイプ(IgG、IgA、IgM等)、サブクラス(IgG1、IgG2等)、親和性(抗原との結合強度)、エフェクター機能(補体活性化能や食細胞への標的提示能)などが防御効果に大きく影響する。実際、Lofano et al.(2021)は、COVID-19感染後の抗体応答を詳細に分析し、単に抗体量だけでなく、その質的特性(特にFcエフェクター機能)が防御と強く相関することを示している[2]。
第三に、少なくとも一部の病原体に対しては、抗体以外の防御機構、特に細胞性免疫(T細胞免疫)が決定的に重要である。例えば、サイトメガロウイルスやEBウイルスなどのヘルペスウイルスに対する防御では、CD8+キラーT細胞が中心的役割を果たすことが知られている[3]。
1.2 多層的免疫記憶:現代的理解
最新の免疫学研究は、ワクチンによって誘導される免疫記憶が少なくとも5つの異なる細胞群と機能的要素から構成される多層的システムであることを明らかにしている。
1) 循環抗体と長寿命形質細胞
血中を循環する抗体(主にIgG)は、侵入直後の病原体を中和する「即時対応力」として機能する。これらの抗体は、骨髄に定着する「長寿命形質細胞」(long-lived plasma cells, LLPCs)によって持続的に産生される。
Hammarlund et al.(2022)によると、これらの細胞はワクチン接種後に骨髄の特殊なニッチ(微小環境)に移行し、数十年にわたって抗体を産生し続けることができる[4]。驚くべきことに、天然痘ワクチン接種者の研究では、接種から88年後でも特異的抗体が検出されたケースが報告されている。
長寿命形質細胞の寿命と抗体産生持続性は、ワクチンの種類によって大きく異なる。Antia et al.(2022)の解析によれば、mRNAワクチンは当初考えられていたよりも長期間の抗体産生を誘導する可能性があり、これは長寿命形質細胞の効率的な生成と関連している可能性がある[5]。
2) 記憶B細胞:適応的レスポンダー
記憶B細胞は、初回暴露後に形成され長期間体内に留まる特殊なB細胞で、再暴露時に急速に活性化して形質細胞(抗体産生細胞)へと分化する能力を持つ。
従来の理解では、記憶B細胞は単一の均質な集団と考えられていたが、最新研究ではさらに複数のサブセットに分類されることが明らかになっている。例えば、Akkaya et al.(2023)は、記憶B細胞を少なくとも4つの機能的サブセットに分類している[6]:
- 迅速応答型記憶B細胞:再刺激後、数日以内に抗体産生形質細胞へ分化
- 増殖型記憶B細胞:再刺激後、まず増殖してから形質細胞または胚中心B細胞へ分化
- 二次胚中心形成型記憶B細胞:再刺激後、新たな胚中心反応を開始し、抗体親和性成熟を促進
- 抗原提示型記憶B細胞:抗原を取り込みT細胞に提示することで、T細胞応答を活性化
特に注目すべきは、記憶B細胞の持つ「適応能力」である。Mesin et al.(2022)によれば、記憶B細胞は元の抗原とわずかに異なる変異抗原(ウイルス変異株など)に対しても交差反応性を示し、さらに再活性化時には抗体遺伝子の追加的変異(体細胞超変異)を通じて新たな変異株にも対応できるよう適応する能力を持つ[7]。
この記憶B細胞の適応能力は、インフルエンザやコロナウイルスなど変異を繰り返す病原体に対する長期的防御において特に重要である。
3) 記憶T細胞:指揮官と実行者
T細胞免疫は、CD4+ヘルパーT細胞とCD8+キラーT細胞(細胞傷害性T細胞)という二つの主要細胞群からなる。これらは抗体では対処困難な細胞内感染(ウイルスや一部の細菌感染)に対する防御で特に重要な役割を果たす。
CD4+記憶T細胞は「免疫指揮官」として機能し、B細胞への助けを提供する濾胞性ヘルパー(Tfh)、マクロファージを活性化するTh1、好酸球を動員するTh2、好中球を誘引するTh17など、複数の機能的サブセットに分化する。各サブセットは特定の病原体タイプに対する最適な防御を調整する。
ワクチン接種後のCD4+T細胞応答の質と量は、長期的な防御能と強く相関する。Crotty(2021)は、COVID-19ワクチンによって誘導される強力なTfh応答が、長期的な抗体応答と記憶B細胞形成の重要な予測因子であることを示している[8]。
一方、CD8+キラーT細胞は「実行者」として機能し、ウイルス感染細胞や一部の細菌感染細胞を直接認識して破壊する。これらの細胞は、特に抗体が到達困難な細胞内病原体に対する「第二防衛線」を形成する。
最も注目すべき最新知見として、Swadling et al.(2022)はCOVID-19の軽症例または無症候例の研究から、スパイクタンパク質ではなくウイルスの内部タンパク質を標的とするCD8+T細胞が、変異株を含む幅広い防御に重要である可能性を示した[9]。この知見は、次世代ワクチン設計において、より保存性の高い内部タンパク質を標的とするT細胞誘導戦略の可能性を示唆している。
4) 組織常在性記憶細胞:前線の番人
2010年代の免疫学における最も重要な発見の一つは、「組織常在性記憶T細胞」(tissue-resident memory T cells, TRM)と呼ばれる特殊な記憶T細胞集団の発見であろう。これらの細胞は循環血中ではなく、皮膚、肺、腸管粘膜などの組織に長期間留まり、病原体の侵入門戸での即時防御を担う。
TRM細胞は独自の表面マーカー(CD69、CD103など)を発現し、組織内に定着するための特殊な分子機構を持つ。その最大の特徴は、病原体再侵入時にきわめて迅速に(数時間以内に)活性化し、防御応答を開始できる点にある。
Szabo et al.(2023)の研究は、呼吸器粘膜に定着するTRM細胞が呼吸器ウイルス感染(インフルエンザなど)に対する最前線の防御を担うことを示している[10]。特に注目すべきは、これらの細胞が抗原特異的応答だけでなく、「バイスタンダー活性化」と呼ばれる機構を通じて、特異的でない広範な防御も提供できる点である。
ワクチン接種経路とTRM形成の関係も重要な研究課題となっている。一般に筋肉内接種の標準的ワクチンは、循環型記憶細胞を主に誘導するのに対し、経鼻や経皮などの粘膜ワクチンは、より効率的にTRM細胞を誘導する可能性がある。実際、Hassan et al.(2022)は、経鼻ワクチンが呼吸器粘膜におけるTRM細胞を効率的に誘導し、呼吸器感染に対する「粘膜免疫(mucosal immunity)」を強化することを示した[11]。
5) 訓練性自然免疫:再プログラムされた初期応答
従来の免疫学では、自然免疫(生まれつきの非特異的防御機構)は「記憶」を持たないと考えられてきた。しかし、2010年代の研究により、「訓練性自然免疫」(trained innate immunity)と呼ばれる現象が発見された。これは自然免疫細胞が初回刺激後に機能的に再プログラムされ、その後の異なる病原体への応答も強化されるという現象である。
この現象はBCGワクチン(結核予防用)研究で初めて詳細に記述された。Netea et al.(2020)は、BCG接種がエピジェネティックな変化(DNAのメチル化やヒストン修飾など)を介して自然免疫細胞、特に単球やマクロファージの機能を長期的に変化させることを示した[12]。
最も驚くべきことに、この訓練性自然免疫は「非特異的防御強化」をもたらす可能性がある。例えば、BCG接種が結核だけでなく、他の呼吸器感染症や一部のウイルス感染に対する抵抗力も高める可能性が複数の研究で示唆されている。これは、特に百日咳やMMR(麻疹・おたふく風邪・風疹)などの生ワクチンで顕著であり、Benn et al.(2023)の最新メタ分析によれば、これらのワクチンは標的疾患以外の感染症による死亡率も低減する可能性がある[13]。
この「訓練性自然免疫」という概念は、ワクチンの効果をより包括的に理解する新たな視点を提供し、特に幼少期のワクチン接種がその後の全般的な感染症抵抗力に及ぼす影響を説明する可能性がある。
2. ワクチン種類と免疫応答の独自性
すべてのワクチンが同じように免疫系に「教える」わけではない。ワクチンのタイプによって、誘導される免疫応答のプロファイルには顕著な違いがある。これらの違いを理解することは、特定の感染症に対する最適なワクチン選択の鍵となる。
2.1 従来型ワクチンの免疫学的特性
生ワクチン(弱毒化ワクチン)
ポリオ(経口)、MMR(麻疹・おたふく風邪・風疹)、水痘、黄熱などの生ワクチンは、病原性を弱めた生きた病原体を含む。これらは自然感染に最も近い形で免疫系を刺激し、以下の特徴を持つ:
- 複数の抗原を提示し、幅広い免疫応答を誘導
- 細胞内で複製するため、強力なCD8+T細胞応答を活性化
- 粘膜免疫を含む、より完全な免疫応答を誘導
- 訓練性自然免疫を活性化する可能性が高い
Sahin et al.(2023)の研究は、生ワクチンが不活化ワクチンと比較して、より多様な抗原特異的T細胞集団を誘導することを示している[14]。また、Palm & Henry(2022)は、生ワクチンの特徴として長期持続性と記憶T細胞応答の強さを挙げている[15]。
しかし、生ワクチンには免疫不全者での病原性復帰(reversion to virulence)リスクという重要な制約もある。
不活化全粒子ワクチン
ポリオ(注射)、A型肝炎、狂犬病などの不活化ワクチンは、化学的または物理的に不活化された完全な病原体を含む。その特徴は:
- 複数の抗原を提示するが、細胞内で複製しない
- 主にB細胞応答と抗体産生を誘導
- CD4+T細胞応答は誘導するが、CD8+T細胞応答は比較的弱い
- 一般に追加接種(ブースター)が必要
不活化ワクチンの最大の利点は安全性であるが、持続性や応答の包括性では生ワクチンに劣る傾向がある。しかし、アジュバント(免疫増強剤)の進化により、現代の不活化ワクチンの有効性は大きく向上している。例えば、Heininger et al.(2022)は、新世代アジュバント添加不活化ワクチンがより強力なT細胞応答も誘導できることを示している[16]。
サブユニット/組換えタンパクワクチン
B型肝炎、HPV(ヒトパピローマウイルス)、帯状疱疹などのサブユニットワクチンは、病原体の一部(精製タンパク質や糖鎖など)のみを含む。特徴として:
- 特定の防御抗原のみに免疫応答を集中
- 高い安全性プロファイル
- 主にB細胞応答と抗体産生を誘導
- 強力なアジュバントが必要
- T細胞応答は抗原とアジュバントの組み合わせに依存
最新世代のサブユニットワクチンでは、抗原デザインと送達も高度に洗練されている。例えば、RSウイルスワクチンのprefusion F タンパク質や、多価HPVワクチンのウイルス様粒子(VLP)技術などが好例である。
Isakova-Sivak & Rudenko(2023)は、これらの技術が「抗原構造の安定化」と「免疫原性の最適化」という二つの目標を同時に達成していると指摘している[17]。
2.2 次世代ワクチン技術の免疫学的特性
mRNAワクチン
COVID-19パンデミックによって一般にも広く知られるようになったmRNAワクチンは、病原体のタンパク質をコードするメッセンジャーRNAを脂質ナノ粒子(LNP)などの送達システムで包んだものである。その特徴は:
- 細胞内でタンパク質が合成されるため、内因性抗原提示経路を活性化
- 強力なB細胞応答とCD4+T細胞応答を誘導
- CD8+T細胞応答も効率的に活性化
- 自然免疫受容体(TLRなど)も刺激し、内因性アジュバント効果を持つ
- 製造が迅速で、容易に配列修正が可能
Pardi et al.(2023)の最新レビューによれば、mRNAワクチンの免疫学的特性として特に注目すべきは「自然免疫活性化と適応免疫誘導のバランス」である[18]。mRNA自体がTLR7/8などの自然免疫受容体を適度に刺激することで、強力な適応免疫応答のための「免疫的文脈」を創出する。
また、Rosa et al.(2023)は、mRNAワクチンが特に胚中心反応(抗体の親和性成熟が起こる場)を効率的に活性化し、高品質の記憶B細胞形成を促進する可能性を示唆している[19]。
ウイルスベクターワクチン
アデノウイルスやウシパラインフルエンザウイルスなどの無害なウイルスを「運び屋」として利用するウイルスベクターワクチンも、COVID-19ワクチン(オックスフォード/アストラゼネカ、Johnson & Johnson)で広く使用された。特徴として:
- 目的抗原遺伝子を細胞に導入し、細胞内で発現させる
- 強力なT細胞応答(特にCD8+T細胞)を誘導
- B細胞応答と抗体産生も効率的に活性化
- ベクターに対する既存免疫が効果に影響する可能性
- 異なる抗原を発現する多価ワクチンの開発が可能
Ewer et al.(2022)は、アデノウイルスベクターワクチンの特徴として、特に強力なT細胞応答誘導能と、長期間の抗原発現による持続的免疫刺激を挙げている[20]。
これらの異なるワクチン技術は、それぞれが独自の「教え方」で免疫系に情報を伝達する。特定の疾患に対する最適なワクチン選択には、病原体の特性、必要な防御タイプ、標的集団などを考慮した総合的な評価が必要となる。
3. 免疫応答の個体差とその要因
ワクチン接種に対する免疫応答は個人によって大きく異なる。同一のワクチンを接種しても、ある人は強い長期的防御を獲得する一方、別の人では応答が弱く短期間しか持続しないことがある。この個体差を理解することは、より効果的なワクチン戦略の開発と個別化医療アプローチの基盤となる。
3.1 年齢による免疫応答の質的差異
免疫系は生涯を通じて変化し、各年齢層は特有の免疫学的特性を持つ。これらの年齢関連変化はワクチン応答に大きな影響を与える。
乳幼児期の免疫特性
乳幼児の免疫系は「未熟」と単純に表現されることが多いが、実際には高度に調整された発達段階にある。0〜2歳児の免疫学的特徴として:
- Th2バイアス:乳幼児の免疫系はTh2型応答(IL-4、IL-5などの産生)に傾く傾向があり、これは特にアレルギー反応と関連する
- 抗体レパートリーの制限:B細胞の多様性が成人より限定的
- 母体抗体の存在:母親から受け継いだIgG抗体が6ヶ月程度まで循環し、ワクチン応答を阻害する可能性
- 代謝免疫調節:糖代謝などが免疫応答に影響
Kollmann et al.(2022)の研究によれば、乳児期の免疫系は特に自然免疫応答が活発だが、適応免疫の記憶形成能力は発達途上にある[21]。この時期のワクチン接種は、自然免疫系から適応免疫系への効率的な「情報伝達」を必要とするため、適切なアジュバントの使用が特に重要となる。
思春期と若年成人期
10代から30代前半は、免疫応答が最も活発で効率的な時期と考えられている:
- バランスのとれたTh1/Th2応答
- B細胞と抗体レパートリーの多様性が最大
- 胚中心反応の効率が最高
- 記憶細胞形成と維持機能が最適
この年齢層では多くのワクチンで最大の効果が得られるが、同時に炎症反応も強い傾向があり、発熱などの副反応も生じやすい。
高齢期の免疫特性
65歳以上の高齢者では「免疫老化(immunosenescence)」と呼ばれる複合的な変化が生じる:
- ナイーブT細胞プールの縮小:新規抗原に対する応答能力の低下
- B細胞レパートリーの制限:抗体多様性の減少
- 炎症性サイトカイン基礎レベルの上昇:「インフラメイジング(inflammaging)」と呼ばれる慢性炎症状態
- 抗体親和性成熟過程の非効率化
Ciabattini et al.(2023)の最新研究は、高齢者におけるワクチン応答の特徴として、初期抗体産生は比較的維持されているが、長期記憶形成と抗体親和性成熟が特に障害されている点を指摘している[22]。
興味深いことに、Franceschi et al.(2023)は、健康長寿者(90歳以上の健康な高齢者)では一般高齢者より良好なワクチン応答が見られることを報告しており、生活習慣要因と免疫老化の関連を示唆している[23]。
3.2 性差と性ホルモンの影響
ワクチン応答における性差は、多くの研究で一貫して報告されている重要な要素である。一般に女性は男性よりも強い免疫応答を示す傾向があるが、これには利点と欠点の両面がある。
Klein & Flanagan(2022)のレビューによれば、女性は多くのワクチン(インフルエンザ、黄熱、COVID-19など)に対して男性より高い抗体価を示す[24]。この差は抗体産生量だけでなく、抗体の質にも及ぶ。女性では抗体の親和性成熟がより効率的で、より広範な交差反応性を持つ抗体が形成される傾向がある。
この性差の主な要因として:
- 性ホルモンの直接的影響:エストロゲンはB細胞活性化と抗体産生を促進し、テストステロンは免疫応答を抑制する傾向がある
- X染色体上の免疫関連遺伝子:女性はX染色体を2本持ち、遺伝子量効果とX染色体不活性化のモザイク状態が免疫多様性に寄与
- 性特異的マイクロバイオーム差異:腸内細菌叢の性差が免疫応答に影響
しかし、この強力な免疫応答には代償もある。女性は自己免疫疾患罹患率が男性より高く(多くの自己免疫疾患で2〜10倍)、またワクチン関連の有害反応も女性でより多く報告される傾向がある。例えば、Shimabukuro et al.(2023)は、COVID-19ワクチン接種後のアナフィラキシー反応が女性で有意に多いことを報告している[25]。
興味深いことに、この性差は年齢によって変動する。思春期前の小児では性差が小さく、思春期以降に顕著になることから、性ホルモンの強い影響が示唆される。また閉経後の女性では性差が縮小するが、完全には消失しない。
このような知見は、性別に応じたワクチン用量調整や、女性の月経周期に合わせたワクチン接種タイミングの最適化など、個別化アプローチの可能性を示唆している。
3.3 遺伝的多型と免疫応答
個人のDNA配列の微細な違い(遺伝的多型)も、ワクチン応答の個体差に大きく寄与する。
HLA型と抗原提示
ヒト白血球抗原(HLA)は細胞表面に存在し、T細胞に抗原ペプチドを提示する分子である。HLA遺伝子は人類で最も多型性が高い遺伝子群であり、個人ごとに異なるHLAタイプを持つ。
異なるHLA型は異なるペプチド結合特異性を持ち、特定の病原体やワクチン抗原からのペプチド提示効率に影響する。Mentzer et al.(2023)の研究は、特定のHLA型(例:HLA-DRB1*13:02)が複数のワクチンに対する良好な応答と関連することを示している[26]。
自然免疫受容体の多型
病原体関連分子パターン(PAMPs)を認識する自然免疫受容体の遺伝的多型も、ワクチン応答に影響する。特にToll様受容体(TLRs)、NOD様受容体(NLRs)、RIG-I様受容体(RLRs)などの多型は、初期免疫応答の強さと質に影響する。
例えば、O’Connor et al.(2022)は、TLR7遺伝子多型がmRNAワクチンへの応答と有意に関連することを報告している[27]。mRNAはTLR7のリガンドとして作用するため、この受容体の変異はmRNAワクチンの有効性に特に影響する可能性がある。
サイトカイン/ケモカイン遺伝子多型
免疫シグナル分子とその受容体の遺伝的変異も、ワクチン応答の個体差に寄与する。例えば、IL-1β、IL-6、TNF-αなどの炎症性サイトカイン遺伝子の多型は、ワクチン接種後の炎症応答の強さと持続時間に影響する。
Zhang et al.(2023)は、IL-4とIL-4受容体の多型がB型肝炎ワクチン応答の予測因子となることを示し、これらの変異がTh2応答とB細胞活性化に影響することを示唆している[28]。
これらの知見は、将来的には遺伝子プロファイルに基づいた個別化ワクチン戦略への道を開く可能性がある。特定の遺伝子多型パターンに基づいて、最適なワクチン種類、用量、アジュバント選択を行う「遺伝子ガイドワクチン接種」は、現在の研究最前線で探求されている概念である。
3.4 マイクロバイオームと免疫調節
過去10年の研究により、体内に共生する微生物群集(マイクロバイオーム)が免疫系の発達と機能に根本的な影響を与えることが明らかになった。特に腸内マイクロバイオームはワクチン応答に大きな影響を及ぼす。
Lynn & Pulendran(2022)のレビューによれば、腸内マイクロバイオームはワクチン応答に少なくとも3つの主要メカニズムで影響する[29]:
- 自然免疫の調整:特定の細菌が産生する短鎖脂肪酸(特に酪酸)などの代謝産物が、樹状細胞やマクロファージの機能を修飾
- B細胞応答の調節:特定の微生物が産生する分子がB細胞の分化と抗体産生を直接調整
- T細胞バランスの調整:マイクロバイオームの組成がTh1/Th2/Th17/Tregバランスに影響
マイクロバイオームのワクチン応答への影響は、特に発展途上国の経口ワクチン(ポリオ、ロタウイルスなど)の有効性低下との関連で注目されている。Harris et al.(2023)は、特定の腸内細菌(特に腸内細菌Proteobacteria門の過剰増殖)が経口ワクチンの効果を阻害する可能性を示している[30]。
最も興味深い発見の一つは、マイクロバイオーム「成熟度」の概念である。乳幼児期の腸内マイクロバイオームは出生から約2〜3年かけて成人型に向かって発達する。この発達過程は地域や生活環境によって異なり、特に低・中所得国では「腸内マイクロバイオーム成熟度遅延」が報告されている。Subramanian et al.(2023)は、この成熟度遅延がワクチン応答不良と相関することを示している[31]。
これらの知見は、マイクロバイオーム調整によるワクチン応答最適化という新たな可能性を示唆している。実際、プロバイオティクス(有益菌)やプレバイオティクス(有益菌の栄養源)のワクチン補助療法としての使用研究が進行中である。
4. 免疫記憶の動態と減衰メカニズム
ワクチンによって誘導される防御免疫は永続的ではなく、時間とともに変化する動的なプロセスである。この免疫記憶の時間的動態を理解することは、最適な追加接種(ブースター)戦略の設計に不可欠である。
4.1 短期・中期・長期の防御機構
ワクチン接種後の免疫応答は、短期・中期・長期という異なるタイムスケールで機能する複数の防御層で構成される。
短期防御(数日〜数週間)
ワクチン接種直後の防御は主に以下の要素に依存する:
- 新規形成形質細胞による抗体産生:脾臓や局所リンパ節で分化した形質細胞が短期間(約1〜2週間)抗体を産生
- 活性化エフェクターT細胞:接種後数日間活性化状態を維持し、細胞性免疫を担う
- 炎症性サイトカイン環境:IL-6、IL-1β、TNF-αなどが一時的に上昇し、免疫応答を促進
これらは主に初回応答の一部であり、持続性は限られている。
中期防御(数ヶ月〜1年程度)
中期的な防御は主に以下の要素による:
- 長寿命形質細胞による継続的抗体産生:骨髄ニッチに移行した形質細胞が数ヶ月〜数年間抗体を産生
- 記憶B細胞と記憶T細胞:末梢リンパ組織と循環血中に存在し、再刺激に備える
- 組織常在性記憶T細胞:粘膜や皮膚などの局所組織に定着し、迅速な局所防御を提供
長期防御(数年〜数十年)
長期的な防御は主に以下の要素に依存する:
- 骨髄長寿命形質細胞のサブセット:特に安定した骨髄ニッチに定着した細胞集団
- 自己更新能を持つ記憶T細胞:IL-7やIL-15などのホメオスタティックサイトカインに応答して長期維持される
- 二次リンパ組織の構造的記憶:濾胞樹状細胞ネットワークに保持された抗原複合体
Antia et al.(2022)の研究は、これらの防御層が互いに補完し合いながら、時間経過とともに「バトンタッチ」するように機能することを示している[5]。特に注目すべきは、抗体産生の主な担い手が、初期の短命形質細胞から骨髄長寿命形質細胞へと移行する過程である。
4.2 抗体減衰のキネティクス
ワクチン接種後の抗体レベルの時間的変化は、単一の指数関数的減衰ではなく、複数の異なる減衰相を示す複雑なパターンをとる。
Amanna & Slifka(2022)の詳細な縦断研究によれば、ワクチン抗体の減衰は少なくとも3つの異なる相で構成される[32]:
- 急速減衰相(接種後1〜3ヶ月):短命形質細胞の死滅に伴う急速な抗体減少
- 中間減衰相(3ヶ月〜1年):中等度の寿命を持つ形質細胞集団による
- 緩徐減衰相(1年以上):骨髄長寿命形質細胞による極めて緩やかな減衰
この複合的減衰パターンは数学的には「多相減衰モデル」として表現され、ワクチンのタイプ、抗原の性質、個人の免疫状態などによって大きく異なる。
特に興味深いのは、特定のワクチン(天然痘、黄熱など)では、抗体が検出可能な水準で数十年間維持される一方、他のワクチン(百日咳、インフルエンザなど)では数ヶ月から数年で保護レベル以下に低下する点である。
この違いの理由として、Antia & Ahmed(2023)は以下の要因を挙げている[33]:
- 抗原の本質的特性:構造的安定性、免疫原性、分子サイズなど
- 抗原提示の持続性:リンパ節内での抗原保持時間
- 骨髄ニッチへの形質細胞移行効率
- 形質細胞の生存シグナル(APRIL、BAFFなど)の利用能力
特にCOVID-19パンデミックは、ワクチン誘導抗体の減衰パターンについての貴重なデータを提供した。Khoury et al.(2023)のメタ分析によれば、mRNAワクチンは当初考えられていたよりも持続的な抗体応答を誘導するが、それでも約6〜8ヶ月で多くの人が中和抗体の有意な減少を示すという[34]。
4.3 B細胞記憶の維持機構
血中抗体が減少した後も、B細胞記憶は長期間維持される。この維持機構の理解は長期的ワクチン効果の鍵である。
記憶B細胞の長期維持には主に3つの機構が関わる:
抗原非依存性維持
記憶B細胞は抗原非存在下でも生存・維持できる。Weisel & Shlomchik(2023)によれば、この維持には以下の要素が重要である[35]:
- BAFF(B細胞活性化因子)とAPRIL(増殖誘導リガンド)などの生存シグナル
- CD40L、IL-21などのT細胞由来シグナル(主に濾胞性ヘルパーT細胞から)
- 内在的生存プログラム:Bcl-2、Bcl-xLなどの抗アポトーシスタンパク質の高発現
持続抗原による維持促進
一部のワクチンでは、抗原が長期間体内に残存し、断続的なB細胞記憶の刺激と更新に寄与する:
- 濾胞樹状細胞ネットワークに捕捉された抗原-抗体複合体
- アルミニウム塩などのアジュバントによる「抗原デポ」効果
- 一部の生ワクチンによる持続的低レベル複製
特にRavichandran et al.(2023)は、mRNAワクチン後のリンパ節内での抗原提示が従来考えられていたよりも長期間(少なくとも2ヶ月)継続することを示し、これが記憶B細胞形成に重要である可能性を示した[36]。
定期的な記憶更新
最も興味深いのは、記憶B細胞が定期的に自己更新・更新される証拠が増えていることである:
- 「記憶B細胞ニッチ」内での自発的分裂
- 交差反応性抗原による断続的刺激(類似病原体との接触)
- 微量病原体抗原との断続的再接触
Mesin et al.(2020)の研究は、記憶B細胞が何年にもわたって徐々に進化し、体細胞超変異を蓄積することを示しており、これは継続的な選択と成熟過程を示唆している[37]。
4.4 T細胞記憶の異質性と持続性
T細胞記憶はB細胞記憶と異なる独自の規則に従い、特に細胞内病原体に対する防御で重要な役割を果たす。
記憶T細胞サブセットの異質性
現代免疫学は記憶T細胞を少なくとも3つの主要サブセットに分類する:
- 中枢記憶T細胞(TCM):リンパ節を循環し、強い増殖能と二次応答能力を持つ
- エフェクター記憶T細胞(TEM):末梢組織を循環し、迅速なエフェクター機能を示す
- 組織常在性記憶T細胞(TRM):特定組織に定着し、局所防御の最前線を形成
Grifoni et al.(2023)の研究によれば、これらのサブセットは異なる寿命と機能特性を持ち、特にTCMは数十年の寿命を持つ可能性がある一方、TEMの寿命は比較的短い(数年程度)という[38]。
T細胞記憶の長期維持メカニズム
T細胞記憶の長期維持には以下の機構が関与する:
- ホメオスタティック増殖:IL-7、IL-15などのサイトカインに応答した自己更新性分裂
- 代謝プログラミング:ミトコンドリア呼吸に依存した効率的エネルギー産生
- エピジェネティック安定化:記憶関連遺伝子の活性化しやすい「開いた」クロマチン状態の維持
特にCOVID-19ワクチンと感染後のT細胞記憶研究は、貴重な新知見をもたらした。Cromer et al.(2022)によれば、COVID-19ワクチン後のT細胞応答は抗体応答より持続的で、特にCD4+T細胞記憶は12ヶ月以上安定して維持されるという[39]。
さらに重要なのは、T細胞記憶がウイルス変異に対して比較的耐性があることだ。これはT細胞が認識するエピトープが、抗体が認識するエピトープよりも保存性が高い傾向があるためである。この特性は、変異を繰り返す病原体(インフルエンザ、コロナウイルスなど)に対する長期防御において特に重要である。
5. 革新的視点:免疫システムとの戦略的対話
現代ワクチン学の最前線では、免疫系を単なる「防御装置」としてではなく、情報処理システムとして捉え、それと戦略的に「対話」するという考え方が広がっている。この視点は、次世代ワクチン開発における革新的アプローチの基盤となる。
5.1 免疫学習のプログラミング:情報理論的アプローチ
最新の免疫学では、免疫系を単なる生理的防御機構ではなく、環境情報を収集・処理・記憶する高度な情報システムと見なす視点が広がっている。この観点からワクチンは「免疫学習プログラム」と理解できる。
Pulendran & Davis(2023)は、免疫情報処理の3つの主要段階を以下のように定式化している[40]:
1) 情報取得(Signal Acquisition)
免疫系が環境から情報を取得する過程:
- パターン認識受容体(PRRs)が病原体関連分子パターン(PAMPs)を検出
- 危険シグナル(DAMPs)が組織障害を通知
- サイトカイン・ケモカインネットワークが局所情報を全身に伝達
ワクチン設計では、この情報取得段階を最適化するため、特定のPRRs(TLR、NOD、RIG-Iなど)を標的とするアジュバントが開発されている。例えば、TLR4アゴニストMPLはB型肝炎ワクチンの一部で使用され、TLR9アゴニストCpGは複数のワクチン候補で試験されている。
2) 情報処理と統合(Signal Processing and Integration)
取得した信号の意味を解釈し、適切な応答を決定する過程:
- 樹状細胞による抗原処理と提示
- T細胞-B細胞-樹状細胞の相互作用による情報交換
- リンパ組織内の空間的情報処理(胚中心形成など)
この段階では「文脈(context)」が決定的に重要である。同一抗原でも提示される免疫学的文脈(サイトカイン環境、共刺激分子など)によって、全く異なる免疫応答が誘導される。
最新のワクチン設計では、この文脈を精密に操作することが目標となる。例えば、特定のTh1/Th2/Th17バランスを誘導するアジュバント組み合わせや、抗原提示の時空間パターンを最適化する送達システムなどが開発されている。
3) 情報保存と想起(Memory Formation and Recall)
処理された情報の長期保存と必要時の想起:
- エピジェネティックプログラミングによる細胞状態の安定化
- 記憶細胞の生存ニッチ形成
- 再刺激時の迅速な情報想起と応答拡大
この情報理論的視点は、ワクチン開発における新たなフレームワークを提供する。Monath et al.(2023)は、「情報密度」という概念を提案し、単位抗原量あたりの有効免疫情報量を最大化するワクチン設計を提唱している[41]。
5.2 免疫系の「訓練」:適応力強化アプローチ
従来のワクチンは特定の病原体に対する特異的防御を目的としていたが、免疫系の「適応力」全体を強化する新概念も注目されている。
異質性プライミング(Heterologous Priming)
異なるワクチンプラットフォームを組み合わせる「異質性プライミング」は、より広範で柔軟な免疫応答を誘導する可能性がある:
- 初回接種と追加接種で異なるプラットフォームを使用(例:ベクターワクチン→mRNAワクチン)
- 複数の抗原提示経路を活性化し、免疫応答の多様性を増大
- 既存免疫(ベクターに対する)のマスキング
Choy et al.(2023)の研究によれば、COVID-19ワクチンの異質性プライミング(例:アデノウイルスベクターに続くmRNA)は、同一プラットフォームの繰り返しよりも幅広い抗体レパートリーと強力なT細胞応答を誘導する[42]。
免疫トレーニング(Immune Training)
「訓練性自然免疫」の概念に基づく、免疫系の基本応答能力向上:
- BCGなどの生ワクチンによる自然免疫の「トレーニング」
- β-グルカン、キチンなどの特定分子による単球/マクロファージプログラミング
- 長期的な免疫応答性向上
Mourits et al.(2023)の研究は、BCG接種が成人の免疫応答を広く「再調整」し、複数の病原体に対する反応性を高める可能性を示している[43]。特に注目すべきは、BCG接種後の骨髄前駆細胞における持続的エピジェネティック変化で、これが「免疫記憶の根源的リプログラミング」につながる可能性がある。
シーケンシャルワクチン設計(Sequential Vaccine Design)
免疫応答の自然な進化過程を模倣した段階的アプローチ:
- 最初に基本的免疫応答を確立する「プライマー」ワクチン
- 続いて免疫記憶を洗練・拡大する「ブースター」ワクチン
- 最終的に広域防御を確立する「ブロードナー」ワクチン
特にHIVやインフルエンザなどの多様性が高い病原体に対して、この段階的アプローチは有望視されている。最初に保存領域に対する基本免疫を確立し、次に変異領域に対応する広域免疫へと誘導するのである。
Mascola et al.(2023)の研究グループは、このアプローチをHIVワクチン開発に応用し、段階的に広がる中和抗体レパートリーの誘導に成功しつつある[44]。
5.3 個別化ワクチン戦略:免疫対話の最適化
「万人向け」のワクチン戦略から、個人の免疫プロファイルに合わせた精密アプローチへの移行も重要な新展開である。
未来の可能性:免疫プロファイリングに基づく個別化
将来的には、個人の免疫状態の詳細分析に基づく完全個別化のワクチン戦略が可能になるかもしれない:
- 既存免疫記憶の詳細マッピング(血清抗体プロファイル、T細胞レパートリーなど)
- 遺伝的背景に基づく応答予測(HLA型、サイトカイン多型など)
- 免疫系発達段階の評価(年齢、性別、マイクロバイオーム状態など)
Poland et al.(2023)は、「免疫フィンガープリント」という概念を提案し、血清プロテオミクス、エピジェノミクス、免疫レパートリー解析などの統合に基づく個別ワクチン処方の可能性を論じている[45]。
現在可能な個別化戦略
完全個別化には至らずとも、現在すでに実現可能な部分個別化アプローチも存在する:
- 年齢層別の最適化:例えば高齢者向け高用量インフルエンザワクチン
- 性別考慮:女性と男性での最適用量の違いを反映
- 既往歴調整:過去の感染・ワクチン接種履歴に基づく戦略調整
- 免疫状態別アプローチ:免疫不全者向け特別レジメン
Zimmermann et al.(2023)の報告によれば、「層別化ワクチン戦略」(完全個別化ではなく、主要リスク・応答要因に基づく集団層別化)は、現在の技術と医療システムでも実現可能で、資源最適利用と効果最大化の両立が期待できるという[46]。
5.4 粘膜ワクチン学:局所防御の革新
多くの病原体が粘膜(呼吸器、消化管、生殖器など)から侵入することを考えると、この最前線での防御強化は理想的アプローチとなる。粘膜ワクチン学は特に過去5年で大きく発展した分野である。
粘膜免疫系の独自性
粘膜免疫系は全身免疫系とは異なる特徴を持つ:
- 分泌型IgA(sIgA)の優位性:二量体構造と粘液層での効率的機能
- 特殊な抗原取り込み機構:M細胞、粘膜特異的樹状細胞など
- 独自の調節機構:粘膜特有のサイトカイン環境とTreg細胞制御
- コンパートメント化:異なる粘膜部位(鼻、肺、腸など)は部分的に独立した免疫系を持つ
Russell et al.(2023)は、COVID-19パンデミックが粘膜免疫の重要性に新たな注目をもたらしたと指摘する[47]。従来の筋肉内ワクチンは全身免疫を強力に誘導するが、粘膜での局所防御(特にIgA抗体と組織常在性T細胞)は限定的にしか誘導しない。
粘膜ワクチン送達の革新
粘膜免疫を効果的に誘導するためには、特殊な送達技術が必要である:
- 経鼻送達システム:ナノ粒子、キトサン担体、特殊スプレーデバイスなど
- 経口送達技術:腸溶性コーティング、プロバイオティクスベクター、食品ベースシステム
- 経皮送達:マイクロニードル、経皮パッチ技術
特に注目される最新技術として、Langel et al.(2023)は、鼻腔内に吸入されるエアロゾルmRNAワクチンの開発を報告しており、これが呼吸器ウイルスに対する強力な局所IgA応答と組織常在性T細胞を誘導することを示している[48]。
コンパートメント間クロストーク
全身免疫と粘膜免疫は独立系ではなく、相互に影響し合う:
- 「共通粘膜免疫系」:一つの粘膜部位での免疫活性化が他の部位にも影響
- 「プライム・プル」戦略:全身免疫による「プライミング」後に粘膜での「プル」を行う
- 免疫細胞のホーミング:特定の接着分子と受容体が免疫細胞の粘膜組織への移行を制御
この知見を応用した「ハイブリッドワクチン戦略」が注目されている。例えば、Baharom et al.(2023)は、筋肉内mRNAワクチン接種後の経鼻追加接種が、全身免疫と粘膜免疫の両方を最適化できる可能性を示している[49]。
結論:多層防御システムとしてのワクチン誘導免疫
本章で見てきたように、ワクチンの作用機序は単純な抗体産生という従来の理解をはるかに超える、複雑かつ多層的なプロセスである。現代免疫学の知見に基づけば、ワクチンは少なくとも5つの異なる防御層(循環抗体、記憶B細胞、CD4+/CD8+記憶T細胞、組織常在性記憶細胞、訓練性自然免疫)を活性化し、それぞれが異なる時間スケールと防御メカニズムで機能する。
この多層性理解は、特定の防御層のみに焦点を当てた従来の評価法(例:抗体価のみの測定)の限界を強調し、より包括的なワクチン評価への移行を促している。また、様々な要因(年齢、性別、遺伝的背景、マイクロバイオームなど)が免疫応答に与える影響の理解は、「万人向け」から「個別化」へのパラダイムシフトを示唆している。
最終的に、ワクチンは「免疫系との戦略的対話」として再概念化できる。この対話では、提供される情報(抗原)、情報の提示方法(送達システム)、情報の文脈(アジュバント)、そして対話の時間的構造(接種スケジュール)のすべてが最終的な防御能力に影響する。この概念的フレームワークは、次世代ワクチン開発における科学的思考の基盤となるだろう。
本章で概観した多層的理解は、次章で扱う「個人免疫生態系から見た最適ワクチン戦略」の基礎となる。免疫系の基本原理を理解した上で、個人差と最適化戦略を検討していくことになる。
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