第6部:音楽知覚と批評の神経美学
「本物らしさ」の脳科学:音楽的真正性判断の神経基盤
人はなぜあるジャズ演奏を「真に迫っている」と感じ、別の演奏を「技術的には完璧だが魂がない」と判断するのだろうか。なぜ特定の音楽家の演奏に「本物の感情」を感じ、別の演奏を「計算された」と評価するのだろうか。これらの判断は単なる主観的好みの問題だろうか、それとも脳内の特定のプロセスに基づいた客観的側面を持つのだろうか。
音楽的真正性の知覚と判断は、音楽批評の中核を成す要素でありながら、その神経基盤についての体系的理解は長らく未開拓のままだった。しかし近年、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)、脳波計(EEG)、拡散テンソル画像法(DTI)などの先進的神経画像技術の発展により、音楽的審美判断の脳内メカニズムが徐々に解明されつつある。
カリフォルニア大学バークレー校の神経美学者デビッド・フリーマン(Freeman, 2018)は、「神経美学はかつて芸術体験の単なる相関的脳活動を記述するにとどまっていたが、今や審美的判断の因果的メカニズムと計算論的基盤に迫りつつある」と指摘している。特に音楽知覚と批評の分野では、「真正さ」や「本物らしさ」という一見して主観的な判断が、測定可能な神経活動パターンと関連していることが明らかになりつつある。
本章では、音楽知覚と審美的判断の神経基盤について、最新の神経科学研究と理論的枠組みを参照しながら詳細に探究する。この探究を通じて、音楽批評という一見して主観的で文化依存的な現象が、実は普遍的な神経メカニズムに部分的に基づいていることを示すとともに、文化的・個人的要因がこれらの神経プロセスをどのように形作るかについても考察する。
美的音楽体験の神経回路:報酬系から前頭前皮質へ
音楽的「美しさ」や「真正性」の知覚は、脳内のどのような活動パターンと関連しているのだろうか。この問いに答えるため、マックス・プランク研究所の神経科学者ステファン・ケルシュとコペンハーゲン大学のピーター・ヴィノクール(Koelsch & Vuust, 2015)は、音楽鑑賞中の脳活動を詳細に分析する一連の研究を実施した。
彼らの研究によれば、「美しい」または「感動的」と評価される音楽体験時には、以下の脳領域が一貫して活性化することが示されている:
- 報酬系:腹側被蓋野(VTA)と側坐核(NAcc)を中心とする中脳辺縁系報酬回路の活性化が、音楽の「快感」と強く相関する。これらの領域はドーパミン放出の主要源であり、音楽による「鳥肌」や「感動」の身体的反応と直接関連している。
- 前頭前皮質(PFC):特に内側眼窩前頭皮質(mOFC)と背外側前頭前皮質(dlPFC)の活動増加が、音楽の「価値」判断と関連している。これらの領域は、感覚情報の統合、価値評価、審美的判断の中枢として機能する。
- 島皮質:内受容感覚(身体内部状態の知覚)と情動処理に関わるこの領域の活性化は、音楽体験の身体的・情動的側面と関連している。
ケルシュとヴィノクールの研究では、参加者が「真に迫った」または「本物らしい」と評価した音楽演奏を聴いているときに、これらの領域間の機能的結合性(領域間の協調的活動)が有意に増加することも示された。特に、前頭前皮質と島皮質、そして報酬系との間の結合性増加は、「真正性」の主観的評価と強い相関を示した。
また、ハーバード大学の認知神経科学者ゴッツフリード・シュラウグとマサチューセッツ工科大学の音楽認知研究者デヴィッド・ハーブーアー(Schlaug & Hubbard, 2013)は、音楽的熟達度と審美的判断の神経基盤の関係を調査する研究を行った。彼らはfMRI技術を用いて、プロの音楽家と非音楽家が「良い演奏」と「劣った演奏」を聴いているときの脳活動を比較分析した。
結果は興味深いものだった。両グループとも「良い演奏」に対して報酬系の活性化を示したが、音楽家グループでは前頭前皮質(特にBA44/45領域)と下頭頂小葉の活動が非音楽家と比較して有意に強かった。これらの領域は、音楽の構造的・技術的側面の処理に関与していると考えられ、音楽家は演奏の技術的側面と情動的側面の両方を統合して審美的判断を形成していることが示唆された。
ニューヨーク大学の神経美学者エドワード・ヴェッセルとガブリエル・スターク(Vessel & Starr, 2018)による最新の研究は、この知見をさらに発展させた。彼らは高解像度fMRIと多変量パターン分析(MVPA)技術を用いて、音楽的「美」と「真正性」の神経表象を詳細に分析した。
この研究では、参加者に様々なジャンルの音楽演奏(クラシック、ジャズ、ロック、民族音楽など)を聴かせ、それぞれの「美しさ」と「真正性」を評価させた。分析の結果、以下の重要な知見が得られた:
- 「美しさ」の判断は主に内側眼窩前頭皮質(mOFC)と後帯状皮質(PCC)の活動パターンに反映される
- 「真正性」の判断は島皮質、腹内側前頭前皮質(vmPFC)、そして扁桃体の活動パターンに強く関連する
- 両判断は部分的に重複するが、異なる神経回路に依存する独立した次元である
特に注目すべきは、「真正性」判断の神経基盤における扁桃体の中心的役割である。次節では、この情動処理の中枢と音楽的判断の関係についてさらに詳しく検討する。
情動処理と音楽的判断:扁桃体とその結合ネットワーク
音楽的「真正性」の判断において、なぜ情動処理が中心的役割を果たすのだろうか。この問いに取り組むため、オックスフォード大学の神経科学者エドマンド・ロランズとコロンビア大学の音楽認知研究者エリザベス・マーグリス(Rollins & Margulis, 2016)は、音楽聴取時の扁桃体活動と主観的評価の関係を詳細に調査する研究を実施した。
扁桃体は、脳の側頭葉深部に位置する情動処理の中枢であり、恐怖や喜びなどの基本的情動反応に関与することが知られている。しかし近年の研究は、扁桃体がより複雑な社会的・美的判断にも関与していることを示している。
ロランズとマーグリスの研究では、参加者に「技術的に完璧だが感情が伝わってこない」演奏と「技術的には完璧ではないが感情的に響く」演奏を聴かせ、脳活動を測定した。結果は明確だった:「感情的に響く」演奏に対しては扁桃体の顕著な活性化が見られたのに対し、「技術的に完璧」な演奏では扁桃体の活動は比較的低く、代わりに背外側前頭前皮質(dlPFC)と下頭頂小葉(IPL)の活動が優位だった。
さらに興味深いことに、「感情的に響く」演奏に対する扁桃体の活性化パターンは、参加者が実生活で経験する自然な情動反応時(例:感動的な体験の想起時)の活動パターンと高い類似性を示した。この結果は、「真正な」音楽体験が、実際の情動体験と神経レベルで共通のメカニズムを持つことを示唆している。
マックス・プランク研究所の神経科学者ダニエラ・サンモーロとオリビア・ラウティサー(Sammler & Laudisio, 2019)による最新研究は、この関係をさらに深く探求した。彼らは、音楽家と非音楽家を対象に、扁桃体と前頭前皮質の機能的結合性を分析する研究を行った。
この研究では、プロの音楽家(最低10年以上の訓練を受けた者)と音楽訓練のない参加者に、様々な演奏を聴かせながらfMRIスキャンを行った。結果、音楽家グループでは扁桃体と前頭前皮質(特に内側前頭前皮質と眼窩前頭皮質)の間の機能的結合性が非音楽家と比較して有意に強化されていることが示された。
特に注目すべきは、この機能的結合性の強さが、音楽家が示す演奏の「真正性」に対する判断の精度と正の相関を示したことである。つまり、扁桃体-前頭前皮質間の結合性が強い音楽家ほど、演奏の「真正性」をより一貫して判断する傾向があった。
サンモーロとラウティサーは、音楽訓練によって扁桃体が前頭前皮質のトップダウン制御をより強く受けるようになり、これが「情動的反応の認知的評価」を促進する可能性を指摘している。換言すれば、熟練した音楽家は情動反応を単に経験するだけでなく、その情動を音楽的文脈内で評価・解釈する能力が強化されているということである。
この結合性の強化は、音楽訓練の期間と強度に関連していることも示された。最低でも約8年以上の集中的訓練を受けた音楽家において、この神経ネットワークの再編成が顕著に観察された。これは、音楽的審美判断の神経基盤が経験依存的可塑性を示すことを示唆している。
ノッティンガム大学の音楽神経科学者ローレン・スチュワートとマンチェスター大学のリチャード・パーンカット(Stewart & Parncutt, 2017)は、これらの知見を統合し、「情動的真正性の神経モデル」を提唱した。このモデルによれば、音楽的「真正性」の判断は、以下の神経プロセスの協調によって生じる:
- 扁桃体を中心とする情動処理システムによる音楽の情動的内容の抽出
- 前頭前皮質による情動反応の認知的評価と文脈化
- 扁桃体-前頭前皮質ネットワークを通じた情動と認知の統合
- 報酬系(VTA、NAcc)の活性化による「真正性」評価の強化
このモデルの重要な点は、音楽的「真正性」の判断が単純な情動反応ではなく、情動と認知の複雑な統合プロセスであることを示している点である。次に、このプロセスを支える脳の構造的基盤について検討しよう。
専門性の神経基盤:構造的差異からパターン認識能力へ
音楽専門家の「真の演奏」を見分ける能力は、単なる個人的好みではなく、脳の構造的・機能的特徴に根ざしている可能性がある。この観点から、ハーバード大学とベス・イスラエル・ディーコネス医療センターの神経科学者グループ(Loui et al., 2011)は、音楽訓練と聴覚-前頭ネットワークの構造的関連性を調査する画期的研究を実施した。
この研究では、拡散テンソル画像法(DTI)を用いて、音楽家と非音楽家の白質構造(神経線維束)を比較分析した。特に注目されたのは、聴覚野と前頭前皮質を結ぶ上縦束(SLF)という重要な白質経路である。結果、音楽訓練を受けた人々は、この経路に有意な構造的違いを示した:
- 上縦束の体積が非音楽家と比較して平均約15%増加
- 経路の一貫性を示す分数異方性(FA)値の上昇
- 聴覚野と前頭前皮質間の構造的結合性の強化
これらの構造的差異は、音楽訓練の開始年齢と期間に応じて段階的に増加していた。特に、幼少期(7歳以前)に訓練を開始した音楽家では、これらの構造的特徴がより顕著だった。この知見は、音楽訓練が脳の構造的発達に及ぼす影響と、いわゆる「臨界期」の重要性を示唆している。
ロンドン大学の認知神経科学者ステファニー・カールトンとケンブリッジ大学の音楽心理学者イアン・クロス(Carlton & Cross, 2016)は、これらの構造的差異が音楽的「真正性」の判断とどのように関連しているかを調査した。彼らの研究では、DTIで測定された上縦束の構造的特性と、音楽演奏の「真正性」判断の精度との間に強い相関が見られた。
特に興味深いのは、上縦束の構造的特性が、特定の認知能力と関連していたことである:
- 音楽的パターン認識能力:複雑な音楽パターン(例:調性構造や動機展開)の識別能力
- 微細変化検出能力:演奏における微妙なタイミングや強度の変化を検出する能力
- 文脈的期待生成能力:音楽の流れから適切な期待を形成する能力
これらの能力は、いずれも音楽の「真正性」を判断する上で重要な役割を果たす。例えば、よく訓練された音楽家は、演奏における微細な表現的ニュアンス(アゴーギク、ルバート、アーティキュレーションの微妙な変化など)を検出し、それが音楽的文脈に適切かどうかを判断できる。この能力の神経基盤が、上縦束によって媒介される聴覚-前頭ネットワークであると考えられる。
スタンフォード大学の音楽認知研究者ビンリン・ヤンとカリフォルニア大学サンディエゴ校の神経科学者ジョン・レイノルズ(Yang & Reynolds, 2020)は、近年の研究でこの関係をさらに探求した。彼らはfMRIと機械学習技術を組み合わせ、音楽家と非音楽家が演奏の「真正性」を判断する際の脳活動パターンを分析した。
この研究では、パフォーマンスの「真正性」に関する判断を予測できる脳活動パターンの同定に成功した。特に、聴覚皮質(特にBA41/42)、下前頭回(BA44/45)、そして下頭頂小葉(BA40)にまたがる活動パターンが、「真正性」判断と強く関連していた。これらの領域は、上縦束によって結ばれている領域とまさに一致する。
さらに、ヤンとレイノルズは、これらの活動パターンが特定の音響特性—特に、音楽の流れにおける微細なタイミング変動(マイクロタイミング)と表現的強度変化—の検出と関連していることを示した。つまり、「真正」と判断される演奏には、機械的に正確なタイミングではなく、音楽的に意味のある微細な変動パターンが存在し、訓練された耳はこれらのパターンを検出して評価していると考えられる。
これらの研究は、音楽的「専門性」がもはや抽象的な概念ではなく、測定可能な神経構造と機能に根ざした能力であることを示している。音楽訓練を通じて発達する特定の神経ネットワークが、音楽の複雑なパターンをより効率的に処理し、その「真正性」を評価する基盤となっているのである。
予測と期待の神経メカニズム:EEG研究が明らかにする音楽的期待の脳内処理
音楽体験の重要な側面の一つは「期待」である。熟練した聴き手は音楽の流れから次に来るべきものを予測し、この予測と実際の展開の関係が審美的評価に重要な役割を果たす。バークリー音楽大学とマサチューセッツ工科大学の共同研究チーム(Zanto et al., 2016)は、音楽的期待の神経メカニズムを解明する先駆的研究を実施した。
この研究では、脳波計(EEG)を用いて、音楽家と非音楽家が音楽的期待に適合する展開と期待に違反する展開に接したときの神経応答を測定した。分析の結果、両グループが「予期せぬ」音楽的展開(和声的、リズム的、形式的逸脱など)に接したときに、特徴的な脳波成分が観察された:
- P300反応:刺激の新規性や予測からの逸脱に関連する脳波成分
- N400反応:意味的期待違反に関連する脳波成分
- 後期陽性成分(LPC):評価的処理と文脈的再解釈に関連する成分
興味深いことに、音楽家グループでは非音楽家と比較して、これらの応答がより早く、より大きな振幅で生じる傾向があった。特に、微妙な音楽的逸脱(例:和声進行の僅かな変更や微細なリズム変化)に対する応答において、両グループ間の差異が顕著だった。
この研究は、音楽訓練が予測システムの精緻化をもたらし、より微細な音楽的期待と逸脱の検出を可能にすることを示唆している。この予測システムの精緻化が、「真正な」音楽と「表面的」な音楽を区別する神経基盤の一部を形成していると考えられる。
ベルリン・フンボルト大学の認知神経科学者マリア・ヴィルマンとノッティンガム大学の音楽認知研究者アレクサンドラ・ライニ(Villmann & Laini, 2019)は、この関係をさらに深く探求した。彼らの研究では、参加者に様々な演奏(「感情的に真正」と評価されたものと「機械的」と評価されたもの)を聴かせながらEEG測定を行った。
分析の結果、「真正」と評価された演奏では、予測誤差に関連する脳波成分(特にMMN(ミスマッチ陰性電位)とP300)の特徴的なパターンが観察された。具体的には、これらの演奏では予測誤差信号がより複雑なダイナミクスを示し、これが「表現的意外性」の知覚と関連していた。対照的に、「機械的」と評価された演奏では、予測誤差信号がより単調で、神経応答のダイナミックレンジが狭い傾向があった。
この研究は、「真正な」音楽体験が、単に予測に従うことではなく、予測と逸脱の複雑な相互作用によって特徴づけられることを示唆している。ベルリン芸術大学の音楽理論家デヴィッド・ハーボン(Huron, 2006)が著書『Sweet Anticipation』で指摘するように、「最良の音楽は、期待を形成させ、それを巧みに裏切り、そして最終的に満たす」のである。
マサチューセッツ工科大学の認知神経科学者エドワード・チャンとマックス・プランク研究所のステファン・ケルシュ(Chang & Koelsch, 2021)による最新研究は、この概念をさらに発展させた。彼らは、高密度EEGと機械学習技術を組み合わせ、音楽的期待処理の時間的ダイナミクスを分析した。
この研究では、音楽的期待の神経処理が以下の段階を経ることが示された:
- 予測形成段階(刺激前180-100ミリ秒):前頭前野を中心とする予測信号の生成
- 予測誤差計算段階(刺激後100-250ミリ秒):聴覚野を中心とする予測と実際の入力の比較
- 評価的処理段階(刺激後250-500ミリ秒):前頭-頭頂ネットワークによる予測誤差の審美的評価
- 文脈的更新段階(刺激後500-800ミリ秒):前頭前野と海馬による予測モデルの更新
特に興味深いのは、「真正」と評価された演奏では、これらの段階間の情報伝達(位相同期性で測定)がより効率的であることが示された点である。これは、「真正な」音楽体験が、予測処理の各段階の円滑な統合によって特徴づけられることを示唆している。
これらのEEG研究から得られた知見は、マックス・プランク研究所のステファン・ケルシュによる「音楽的期待の予測符号化理論」(2019)の中核を成している。この理論によれば、音楽的審美判断は、階層的予測処理システムに基づいており、「真正性」の判断は以下の要素の統合から生じる:
- 低次の予測誤差処理(音響特性、リズム、メロディなど)
- 中間レベルの予測処理(和声進行、形式構造など)
- 高次の予測処理(表現的意図、情動的内容など)
このモデルによれば、音楽訓練は特に中間・高次レベルの予測処理を精緻化し、より洗練された「真正性」判断を可能にする。次節では、これらの神経メカニズムが文化的・社会的文脈によってどのように形作られるかを検討する。
文化と経験の影響:神経美学的可塑性
音楽的審美判断の神経基盤は、文化的・個人的経験によってどのように形成され、変化するのだろうか。この問いに取り組むため、ニューヨーク大学の認知神経科学者エリザベス・ヘルムスとロンドン大学の音楽心理学者マーカス・ペアス(Helms & Pearce, 2018)は、異なる文化的背景を持つ参加者の音楽的審美判断を比較する研究を実施した。
この研究では、西洋のクラシック音楽、北インドのラーガ、西アフリカのポリリズム、中国の伝統音楽など、様々な文化的伝統に属する音楽に対する神経応答を測定した。参加者は、それぞれの文化的伝統に精通した音楽家と、その伝統に馴染みのない聴き手で構成された。
結果は、音楽的審美判断の神経基盤における文化特異的要素と普遍的要素の両方を明らかにした。文化特異的な側面としては、特に以下の点が観察された:
- 馴染みのある音楽伝統に対しては、より精緻化された予測処理と期待違反応答(P300とN400の振幅増大)
- 文化特異的な音楽理論知識に関連する前頭前皮質活動(特にBA44/45とBA9/46)
- 馴染みのある音楽的「語彙」に対する左半球言語関連領域の選択的活性化
一方、文化を超えた普遍的な側面としては、以下の点が観察された:
- 情動的内容の処理に関わる扁桃体と島皮質の活性化
- 音楽的快感に関連する報酬系(VTA、NAcc)の活性化
- パルス感知と時間的構造処理に関わる運動前野と小脳の活動
ヘルムスとペアスは、これらの知見に基づいて「文化的輪郭づけモデル」(cultural shaping model)を提案した。このモデルによれば、音楽的審美判断の神経基盤は、文化的経験によって「輪郭づけられた」普遍的機構から成る。つまり、情動処理や報酬処理など基本的な神経メカニズムは普遍的だが、これらのメカニズムが活性化されるパターンは文化的学習によって形成される。
ケンブリッジ大学の神経音楽学者キャサリン・エリスとルンド大学の認知科学者アルフ・ガブリエルソン(Ellis & Gabrielsson, 2020)は、この文化的輪郭づけがどの程度可塑的であるかを調査する縦断研究を実施した。彼らは、西洋の音楽教育を受けた参加者に、非西洋音楽(特にインドのラーガ)の集中訓練を1年間提供し、訓練前後の神経応答を比較した。
結果は驚くべきものだった。わずか1年の訓練で、参加者の神経応答パターンが有意に変化し、インド音楽の熟練した演奏と初心者の演奏を区別する能力が向上した。特に、ラーガの微分音的音程(西洋の平均律には存在しない音程)に対する神経応答が精緻化され、これらの微妙な音程変化に関連する予測誤差信号(MMN)が明確に観察されるようになった。
さらに、訓練後の参加者は、ラーガの真正な演奏に対して、インド音楽の専門家と類似した神経活動パターン(特に島皮質と前頭前皮質の機能的結合性)を示すようになった。この結果は、音楽的「真正性」に対する神経応答が、比較的短期間の訓練によっても再形成可能であることを示している。
トロント大学の音楽認知研究者ジョン・スローボダとロンドン大学の神経心理学者パトリック・ウルフ(Sloboda & Vuille, 2019)は、この可塑性を「審美的神経人類学」という新しい概念的枠組みで捉えた。彼らによれば、音楽的審美判断の神経基盤は、生物学的に決定された普遍的機構と、文化的学習による可塑的変化の間の動的相互作用として理解される。
このフレームワークの重要な側面は、文化的学習が単に既存の普遍的機構を修飾するだけでなく、新たな神経回路を形成し、知覚そのものを変化させることである。例えば、特定の音楽伝統における長期訓練は、その伝統に特有の音響パターンに選択的に応答する専門化された神経回路を発達させる可能性がある。
こうした研究は、音楽的「真正性」の判断が単なる主観的好みではなく、文化的学習によって形成された特定の神経処理能力に基づいていることを示唆している。次節では、これらの知見を統合し、音楽的審美判断の包括的神経モデルを検討する。
統合的モデル:ノッティンガム大学の「音楽的熟達の神経モデル」
これまでの研究知見を統合する形で、ノッティンガム大学の音楽神経科学者ローレン・スチュワート(Stewart et al., 2022)は、「音楽的熟達の神経モデル」(Neural Model of Musical Expertise, NMME)を提唱した。このモデルは、音楽的審美判断の神経基盤を包括的に説明することを目指している。
NMMEの中核をなすのは、相互に関連する4つの神経処理システムである:
- 知覚処理システム:音響特性の基本的処理から複雑な音楽パターンの知覚までを担当する。このシステムは、聴覚野(初期処理)と上側頭回(STG、複雑パターン処理)を中心とし、音楽訓練に応じて発達する。訓練を受けた聴き手は、より微細な音響パターンを識別し、複雑な音楽構造をより効率的に処理できる。
- 予測処理システム:音楽の流れから次に来るであろうものを予測し、実際の音楽的展開との比較を行う。このシステムは、前頭前皮質(特にBA44/45と前運動野)と下頭頂小葉(BA40)を中心とし、音楽理論知識に基づく上位予測と、統計的学習に基づく下位予測を統合する。訓練を受けた聴き手は、より精緻化された予測モデルを持ち、微細な予測違反を検出できる。
- 情動処理システム:音楽の情動的内容を抽出し、聴き手自身の情動反応を生成する。このシステムは、扁桃体、島皮質、そして前帯状皮質(ACC)を中心とし、音楽的刺激の感情的意味と聴き手の身体状態を統合する。訓練を受けた聴き手は、音楽的表現とそれに対応する情動的内容の関連づけがより精緻化されている。
- 評価処理システム:知覚、予測、情動の各処理結果を統合し、最終的な審美的判断を形成する。このシステムは、内側前頭前皮質(mPFC)、眼窩前頭皮質(OFC)、そして後帯状皮質(PCC)を中心とし、音楽的体験の多次元的評価を行う。訓練を受けた聴き手は、より多くの評価次元(技術的側面、表現的側面、構造的側面など)を統合できる。
このモデルの重要な特徴は、これらのシステムが独立して機能するのではなく、密接に相互作用する点である。特に、各システム間の機能的結合性(システム間の情報伝達効率)が、音楽的熟達度と審美的判断の精度に重要な役割を果たす。
スチュワートらの研究によれば、音楽訓練は単にこれらのシステムの個別機能を向上させるだけでなく、システム間の統合を促進する。特に、情動処理システムと評価処理システムの統合が、「真正性」判断に重要な役割を果たすという。音楽的「真正性」は、演奏が適切な情動的内容を伝達し、それが聴き手の情動処理システムと評価処理システムの間の最適な相互作用を促進するときに知覚される。
このモデルは、様々な音楽的審美判断の神経相関を予測・説明することができる。例えば:
- 「技術的に完璧だが感情が伝わってこない」演奏は、知覚・予測システムを十分に活性化させるが、情動処理システムとの最適な相互作用を欠く。
- 「粗削りだが心に響く」演奏は、予測処理の観点からは最適ではないかもしれないが、情動処理システムと評価処理システムの間に強い相互作用を生み出す。
- 「真に迫った」演奏は、4つのシステム全てを最適なバランスで活性化させ、システム間の情報伝達を最大化する。
スチュワートのモデルは、音楽的「真正性」に関する神経美学的研究の統合的枠組みを提供するとともに、音楽教育や演奏実践への応用可能性も示唆している。例えば、音楽訓練において単に技術的正確さだけでなく、システム間の統合—特に知覚・予測処理と情動処理の統合—を促進するアプローチの重要性が示される。
ケンブリッジ大学の音楽認知研究者マイケル・スパイツァーとオックスフォード大学の神経科学者マリア・マッジオ(Spitzer & Maggio, 2023)は、最近の共同研究で、このモデルに社会的・文化的次元を加えた拡張版を提案している。彼らによれば、音楽的審美判断は神経生物学的基盤を持ちながらも、社会的学習と文化的文脈によって形作られる。特に、「真正性」の概念自体が特定の文化的・歴史的文脈内で構築され、神経処理システムの発達に影響を与えるという視点を強調している。
結論:主観と客観の交差点としての音楽批評
音楽的「真正性」や「本物らしさ」の知覚と判断は、長らく主観的で文化依存的な現象として理解されてきた。しかし、本章で検討した神経美学研究は、これらの判断が特定の脳内プロセスと関連しており、ある程度の客観的基盤を持つことを示している。
特に重要なのは、音楽的審美判断が単一の脳領域や単純なプロセスに帰着するのではなく、複数の神経システム(知覚、予測、情動、評価)の協調的活動に基づいていることである。この協調的活動は、音楽訓練によって精緻化され、個人の文化的経験によって輪郭づけられる。
このような視点は、音楽批評の神経生物学的妥当性を示唆すると同時に、その文化的・個人的多様性も説明する。「良い」音楽や「本物の」演奏に関する判断は、完全に恣意的なものではなく、私たちの脳の構造と機能に部分的に根ざしているが、同時に文化的学習と個人的経験によって形成される可塑的なものでもある。
この神経美学的理解は、音楽教育、演奏実践、音楽療法など、様々な応用分野に重要な示唆をもたらす。特に、「技術的正確さ」と「表現的真正性」のバランス、文化的文脈の重要性、そして神経システム間の統合を促進するアプローチの価値が強調される。
マックス・プランク研究所の神経科学者ステファン・ケルシュ(Koelsch, 2020)が指摘するように、「音楽は、私たちの最も複雑な認知能力と最も深い情動を動員する人間活動である」。音楽知覚と批評の神経美学的研究は、この複雑な活動の生物学的基盤を解明すると同時に、人間の文化的・精神的次元への科学的アプローチの可能性を示している。
次章では、この探究をさらに発展させ、感覚操作による創造性拡張技法について検討する。特に、フロー状態を誘導するための感覚調整法、身体性アプローチ、そして意図的感覚制限の実践的応用に焦点を当て、芸術的創造性の向上に向けた神経科学に基づくアプローチを探究する。
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