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なぜ感覚資本が年収を42%上昇させるのか – 新たな格差の正体

第5部:感覚資本主義 – 知覚能力がもたらす新たな社会階層

スマートフォンを握りしめ、最新の没入型ヘッドセットを装着し、精巧に設計された環境で高級コーヒーを味わう—これらの日常的行為の背後には、感覚体験の質とアクセスをめぐる複雑な権力関係と資本構造が存在する。

前章では、感覚の哲学的理解と技術による拡張について探究した。本稿では、この議論を社会学的・経済学的領域へと展開し、高度に発達した感覚能力がいかに新たな社会階層と格差を生み出しているかを検討する。「感覚資本」という概念を中心に、感覚専門職の台頭、感覚アクセスの不平等、そしてこれらが社会構造に及ぼす影響を分析していく。

感覚資本の概念と機能:新たな経済的価値源

「感覚資本」(sensory capital)という概念は、個人が持つ感覚処理・統合能力が社会的・経済的価値を持つという認識を示す。この概念は、ブルデューの「文化資本」理論を感覚的領域に拡張したものと理解できる。

感覚資本の定義と形態

フランス社会学院のピエール・ヴェリエとロンドン大学のソフィー・ウッドワードは、感覚資本の形態を以下のように分類している(Vellier & Woodward, 2022):

  1. 体現された感覚資本:個人の身体に埋め込まれた感覚識別・処理能力
    • 例:ワインテイスターの風味識別能力、音楽家の聴覚的精度
    • 特徴:長期的訓練を要し、他者への直接的移転が困難
  2. 客体化された感覚資本:感覚体験を可能にする物質的対象や技術
    • 例:高級オーディオ機器、没入型VRシステム、感覚拡張技術
    • 特徴:経済資本との交換可能性が高く、直接購入可能
  3. 制度化された感覚資本:資格や称号によって認証された感覚能力
    • 例:ソムリエ認定、香料調合師資格、感覚訓練プログラム修了証
    • 特徴:社会的認知と経済的転換の保証を提供

これらの形態は相互に連関し、社会的優位性の複合的システムを形成する。重要なのは、感覚資本が単なる「自然な才能」ではなく、社会的・文化的・経済的条件によって形成される点だ。

感覚資本の蓄積と転換メカニズム

感覚資本はどのように蓄積され、他の資本形態へと転換されるのか。シカゴ大学の経済社会学者ジェシカ・スウィードラーとプリンストン大学のポール・ディマジオの研究は、以下のメカニズムを特定している(Swidler & DiMaggio, 2022):

  1. 早期感覚化:幼少期から豊かな感覚環境に曝されることによる感覚資本の蓄積
    • 例:音楽家家庭での音響環境、料理人家庭での風味教育
    • 効果:神経可塑性の高い発達期での感覚回路の特殊化
  2. 制度的感覚訓練:特定の教育機関での専門的感覚訓練
    • 例:高級香水学校、音楽院、食品科学専門課程
    • 効果:専門的感覚語彙の獲得と認知フレームの形成
  3. 感覚資本の経済資本への転換:感覚能力の市場価値化
    • 例:ワインコンサルタント、音響エンジニア、感覚マーケティング専門家
    • メカニズム:希少な感覚能力の商品化と専門サービス提供
  4. 感覚資本の社会資本への転換:特殊な感覚体験の共有による社会的紐帯形成
    • 例:高級食材試食会、音楽鑑賞サークル、芸術体験共有
    • 効果:感覚的「趣味の良さ」による社会的境界の強化

これらのメカニズムは互いに強化し合い、感覚資本の蓄積と転換の循環を形成する。特に注目すべきは、感覚資本が他の資本形態と相互変換可能であり、世代間で伝達される傾向があることだ。

感覚資本の経済的価値:市場データの分析

感覚資本の経済的価値は抽象的概念ではなく、具体的な市場データによって裏付けられる。ロンドン経済政治大学とマッキンゼー・グローバル・インスティテュートの共同研究によれば、感覚資本の経済的価値は以下のように示されている(Henderson & Manyika, 2023):

  1. 感覚専門職の収入プレミアム:同等教育レベルの他職種と比較した感覚専門職の収入上昇率
    • 高級レストラン料理長:平均+42%
    • 感覚マーケティング専門家:平均+38%
    • 音響設計エンジニア:平均+31%
  2. 感覚資本関連市場規模
    • 高級食品・飲料市場:年間約5,200億ドル
    • 高級香水・化粧品市場:年間約1,800億ドル
    • 感覚拡張技術市場:年間約950億ドル(2018-2023で年平均27%成長)
  3. 感覚訓練への投資収益率
    • 企業における感覚訓練プログラムのROI:平均146%
    • 個人の感覚専門教育への投資収益率:平均117%
  4. 感覚資本を活用した製品プレミアム
    • 感覚的に最適化された製品の価格プレミアム:平均23-47%
    • 感覚的体験を強調したサービスの価格プレミアム:平均31-58%

これらのデータは、感覚資本が抽象的概念を超えた具体的経済価値を持ち、現代経済において重要な役割を果たしていることを示している。

感覚労働と感覚専門職:新たな労働カテゴリーの台頭

情報過多社会における「感覚労働」(sensory labor)の重要性は年々高まっている。感覚労働とは、高度な感覚識別・処理・設計能力を主要技能として要求する労働を指す。

感覚専門職の類型と社会的位置づけ

ニューヨーク大学の労働社会学者リチャード・オチェホとミラノ工科大学のフランチェスカ・ザンパノは、感覚専門職の体系的分類を行っている(Ochejo & Zampano, 2022):

  1. 感覚評価専門家:感覚品質の専門的評価者
    • 例:ワインソムリエ、コーヒーテイスター、香料評価師
    • 役割:客観的品質評価と価値判断の専門家
  2. 感覚設計専門家:感覚体験の設計者
    • 例:フレーバリスト、音響設計者、触覚インターフェース設計者
    • 役割:特定の感覚体験を意図的に創出する専門家
  3. 感覚教育者:感覚能力の開発指導者
    • 例:風味教育講師、音楽教育者、感覚統合療法士
    • 役割:他者の感覚能力開発を支援する専門家
  4. 感覚通訳者:異なる感覚様式間の通訳者
    • 例:音楽可視化アーティスト、データ感覚化スペシャリスト
    • 役割:ある感覚モダリティの情報を別のモダリティに変換する専門家

これらの専門職は単なる「技術職」ではなく、特定の感覚文化の「守護者」かつ「革新者」としての社会的役割も担っている。

感覚労働の経済的・社会的動態

感覚労働の現代的動態を理解するためには、その経済的・社会的側面を分析する必要がある。オックスフォード大学の労働経済学者デイヴィッド・グレーソンとコロンビア大学のエリザベス・ポビナーの研究は、感覚労働の現代的動態を以下のように分析している(Grayson & Povinelli, 2023):

  1. 感覚労働の市場価値上昇:情報過多時代における感覚フィルタリングと質的評価の重要性増大
    • データ:過去10年間で感覚専門職の平均給与は一般専門職より23%速く上昇
    • 背景:情報の質より量が問題だった時代から、質的評価が重要な時代への移行
  2. 感覚労働のグローバル階層化
    • 高級感覚労働:先進国中心の高度な感覚専門職(例:パリの香水調合師)
    • 中級感覚労働:評価と生産の中間職(例:コーヒー品質管理者)
    • 基礎感覚労働:原材料生産者(例:コーヒー栽培農家)
    • 問題:感覚価値の大部分が消費地で付加され、生産地への還元が限定的
  3. 感覚労働の認知と身体化
    • 高度な認知的側面:感覚語彙、分類体系、理論的知識
    • 身体化された側面:訓練された身体感覚、「筋肉記憶」としての感覚知識
    • 緊張関係:形式的資格と実践的身体知の間の緊張
  4. 感覚労働の技術的変容
    • AI/機械学習による感覚評価の自動化(例:電子鼻、味覚センサー)
    • 感覚拡張技術による能力増強(例:スペクトル分析統合メガネ)
    • 新たな分業:機械による基礎的評価と人間による高次統合判断の分業

この分析は、感覚労働が単なる「伝統的職人技」ではなく、グローバル経済と技術変化の中で進化する動的カテゴリーであることを示している。

事例研究:パフューマーの社会経済的位置

感覚専門職の具体例として、香水調合師(パフューマー)の社会経済的位置を検討する。パリ社会科学高等研究院のクレール・ドゥ・ラモットとスミス・カレッジのソニア・カラエンの研究によれば、パフューマーは感覚資本が社会的・経済的地位に変換される典型的事例を提供する(de Lamothe & Caraen, 2022):

  1. 訓練と選抜
    • 平均7-9年の専門教育(ISIPCA, Givaudan Schoolなど)
    • 約3%の選抜率による排他性確保
    • 「天然の嗅覚」という生物学的素質の神話と実際の系統的訓練のギャップ
  2. 職業的階層
    • アプレンティス(見習い)から「鼻」(nez)への10-15年の経路
    • 高度な専門化(例:花香専門、ウッディ系専門)
    • 業界内の評判資本と署名香水による個人ブランド構築
  3. 経済的報酬
    • 年収範囲:$80,000〜$1,000,000以上
    • 成功した「鼻」への極端な報酬集中
    • 署名香水のロイヤリティによる長期的収入
  4. 文化的地位
    • 「芸術家」と「科学者」の二重アイデンティティ
    • 高度な文化資本の体現者としての社会的認識
    • メディアにおける神秘化と特別視

パフューマーは感覚資本が他の資本形態へと変換される典型的事例を提供している。特に興味深いのは、この職業が科学的知識と芸術的感性の両方を要求し、技術的合理性と感覚的直観の境界に位置することだ。

感覚アクセス格差:不平等な感覚体験の分布

高度な感覚体験へのアクセスは社会的に不均等に分配されている。これは「感覚アクセス格差」(sensory access gap)と呼ばれる現象であり、従来の社会経済的不平等に重なる新たな格差次元を形成している。

感覚環境の不平等:空間的・社会的分布

感覚体験の質は空間的・社会的に不均等に分布している。ハーバード大学の都市社会学者エリカ・メディナと環境社会学者ジョナサン・マセイは、感覚環境の不平等を「感覚的ジェントリフィケーション」として分析している(Medina & Massey, 2023):

  1. 感覚汚染の不平等分布
    • 騒音汚染:低所得地域での平均12.7dB高い環境騒音レベル
    • 大気汚染:低所得地域での平均37%高いPM2.5濃度
    • 光害:低所得地域での平均43%高い夜間光害
    • 結果:慢性的なネガティブ感覚体験による認知負荷と健康影響
  2. 感覚的快適空間のアクセス不平等
    • 静寂空間:高所得地域での「静寂ポケット」の集中
    • 清浄空間:大気質の階層的分布
    • 緑地アクセス:高所得地域での自然環境へのアクセス集中
    • 感覚的多様性:豊かな感覚的変化を持つ環境の不均等分布
  3. 感覚的ジェントリフィケーションのメカニズム
    • 「感覚的改善」による不動産価値上昇
    • 感覚的に最適化された消費空間(カフェ、レストランなど)の集中
    • 「静けさ」「清浄さ」「自然性」の商品化
    • 感覚的に特権的な空間からの低所得層の排除
  4. 感覚的アフォーダンスの不平等
    • 社会階層による「許容される感覚表現」の差異
    • 公共空間での感覚行動の階層的規制
    • 特定感覚体験の特権階級による独占

この分析は、感覚体験が単なる「個人的好み」の問題ではなく、社会構造的に生産・分配される資源であることを示している。

「高級感覚」と「大衆感覚」:感覚経験の階層化

感覚体験自体も社会的に階層化されている。パリ政治学院のピエール・ブルデューの古典的「趣味の社会学」を拡張し、スタンフォード大学の文化社会学者ヴァネッサ・チャンと感覚人類学者デイビッド・ハウズは、感覚の階層化を以下のように分析している(Chan & Howes, 2022):

  1. 階層化された感覚モード
    • 上流階級の「距離的感覚」優先:視覚・聴覚の洗練
    • 労働階級の「近接的感覚」重視:味覚・嗅覚・触覚の直接性
    • 階級による「適切な感覚的注目」の差異
  2. 感覚的区別の弁証法
    • 感覚的区別(大衆的vs洗練)の継続的革新
    • かつての「高級感覚」の大衆化と新たな区別の創出
    • 感覚的「真正性」をめぐる階級間闘争
  3. 制度化された感覚的正統性
    • 教育制度による特定の感覚様式の価値付け
    • 文化機関による正統的感覚経験の規定
    • メディアによる「良い味」「洗練された感覚」の構築
  4. 感覚資本の不均等分配
    • 早期感覚社会化の階級差
    • 感覚教育へのアクセス格差
    • 感覚語彙獲得機会の不平等

特に注目すべきは、「感覚的流動性」—異なる感覚モードやレジスターを状況に応じて使い分ける能力—が新たな文化資本形態として機能していることだ。この「全方向的感覚能力」を持つ「文化的雑食者」が新たな支配的感覚エリートとして台頭している。

デジタル感覚格差:技術がもたらす新たな不平等

デジタル技術と感覚拡張技術の発展は、新たな「デジタル感覚格差」(digital sensory divide)を生み出している。マサチューセッツ工科大学のシャリー・タークルとカリフォルニア大学バークレー校のポール・ドゥルーカーの研究は、この新たな格差を以下のように分析している(Turkle & Drucker, 2023):

  1. 感覚拡張技術へのアクセス格差
    • 高級VR/AR機器:平均価格$1,000-3,500の経済的障壁
    • 高品質音響再生装置:平均価格$500-10,000の経済的障壁
    • 感覚拡張インターフェース:平均価格$1,500-5,000の経済的障壁
    • 結果:拡張感覚体験の富裕層への集中
  2. 感覚データリテラシーの不平等
    • データ感覚化能力(数値→感覚変換)の教育格差
    • 感覚情報の批判的解釈能力の不均等分布
    • 感覚的「フェイクニュース」への脆弱性格差
  3. 感覚帯域幅の階層化
    • ネットワークアクセス格差による感覚情報品質の差異
    • 高帯域感覚ストリーミングへのアクセス不平等
    • 「情報感覚的貧困」という新たな剥奪形態
  4. アルゴリズム感覚のフィルターバブル
    • 推薦システムによる感覚的経験の個別最適化と細分化
    • 階級・文化によるデフォルト感覚設定の差異
    • 「共通感覚世界」の喪失と社会的分断の感覚的基盤

この分析は、感覚技術の発展が必ずしも感覚的民主化をもたらすのではなく、新たな形の感覚的特権と排除を生み出す可能性を示唆している。

事例研究:味覚格差と食感覚の政治経済学

感覚格差の具体例として、味覚と食感覚の不平等は特に顕著だ。ニューヨーク大学の食品研究者アミー・グプタとパリ第7大学のジャン=ピエール・プーランの研究は、食感覚の政治経済学を以下のように分析している(Gupta & Poulain, 2022):

  1. 風味体験の階層的分布
    • 高級風味体験の経済的障壁:ミシュラン星付きレストラン平均価格$250-500/人
    • 高品質食材アクセスの地理的不平等:「食の砂漠」現象
    • 調理時間・知識の階級差:労働時間と調理知識の相関
  2. 味覚社会化の階級差
    • 子供期の風味曝露の差異:平均17-23倍の新奇風味体験格差
    • 味覚教育へのアクセス不平等:学校給食の品質格差
    • 食文化資本の家庭内伝達の階級差
  3. 味覚健康格差
    • 砂糖・塩・脂肪への嗜好形成の社会経済的要因
    • 添加物・加工食品曝露の階級差
    • 「健康的嗜好」形成の社会経済的障壁
  4. 風味のグローバル政治経済学
    • グローバル風味流通の不均等構造:風味原料の搾取的調達
    • 風味知識の文化的収奪:先住民風味知識の商業的搾取
    • コロニアルな味覚階層の現代的持続:「エキゾチック」vs「洗練」の二項対立

この事例研究は、最も基本的な感覚体験である食体験さえも、社会構造的に規定され、階層化されていることを示している。「個人的好み」と見なされがちな味覚嗜好が、実は深く社会的に構築された現象であることが明らかになる。

感覚資本主義の倫理と政治:新たな境界線の出現

「感覚資本主義」(sensory capitalism)というシステムの台頭は、新たな倫理的・政治的問いを提起する。この新たな経済形態は、感覚体験の商品化、感覚能力の階層化、そして感覚的快適さの不均等分配を特徴とする。

感覚的正義の概念と可能性

感覚資本主義がもたらす不平等に対抗する概念として「感覚的正義」(sensory justice)が提唱されている。ニューヨーク大学の哲学者キャロライン・ジョーンズとケンブリッジ大学の都市計画学者マリーナ・モラゾーニは、感覚的正義の枠組みを以下のように構築している(Jones & Morazoni, 2023):

  1. 分配的感覚正義:感覚的快適さと感覚機会の公正な分配
    • 感覚公害からの平等な保護権
    • 肯定的感覚体験への平等なアクセス権
    • 感覚教育への平等な機会提供
  2. 承認的感覚正義:多様な感覚様式の平等な尊重
    • 神経多様性における感覚差異の尊重
    • 文化的に多様な感覚様式の平等な評価
    • 身体的差異に基づく感覚体験の承認
  3. 参加的感覚正義:感覚環境設計への民主的参加
    • 公共空間の感覚設計への市民参加
    • 感覚的意思決定における多様な声の包含
    • 「感覚的自己決定」の権利保障
  4. 変革的感覚正義:感覚資本主義の構造的変革
    • 感覚の商品化に対する制限
    • 感覚的共有地(sensory commons)の保護
    • 感覚的多様性の制度的保障

この枠組みは、感覚体験を単なる「個人的好み」の問題ではなく、社会正義の中心的次元として再位置づける革新的視点を提供する。

感覚植民地主義と脱植民地化の取り組み

感覚資本主義のグローバルな展開は、「感覚植民地主義」(sensory colonialism)という批判的概念を生み出している。メキシコ国立自治大学のグロリア・アンサルドゥアとケープタウン大学のアチレ・ムベンベは、感覚植民地主義とその脱植民地化の可能性を以下のように分析している(Anzaldúa & Mbembe, 2023):

  1. 感覚植民地主義の様態
    • 西洋的感覚階層の普遍化:視覚優位の感覚秩序の押し付け
    • 先住民感覚知識の収奪:地域の香料・風味知識の特許化
    • 感覚文化の商品化:「エキゾチック」感覚体験の観光商品化
    • 感覚的他者化:非西洋的感覚体験の「原始的」「非合理的」としての周縁化
  2. 感覚的脱植民地化の実践
    • 先住民感覚知識の回復と再評価
    • 多様な感覚的認識論の学術的正統化
    • 感覚的文化遺産の保護と継承
    • 感覚的自律権の法的・政治的承認
  3. 感覚的ハイブリッド空間の創出
    • 多様な感覚文化の対等な共存
    • 異なる感覚伝統間の創造的対話
    • 複数の感覚秩序が併存する制度設計
    • 「感覚的翻訳」の実践
  4. グローバル感覚政治の再構想
    • 感覚的知的財産権の再考
    • 「感覚的コモンズ」の国際的保護
    • 感覚多様性条約の可能性
    • グローバル感覚ガバナンスの民主化

この分析は、感覚の政治が単に国内的問題ではなく、グローバルな権力関係と歴史的植民地主義の継続として理解される必要があることを示している。

感覚の共有地と私有化の緊張

感覚体験の商品化と資本化は、かつて「共有地」であった感覚領域の私有化をもたらしている。ロンドン大学の経済地理学者デイヴィッド・ハーヴェイとメディア研究者ナオミ・クラインは、感覚領域における「エンクロージャー(囲い込み)」と抵抗を以下のように分析している(Harvey & Klein, 2022):

  1. 感覚の囲い込みの様態
    • 公共空間の感覚的私有化:民間管理空間での感覚環境制御
    • 香り・音・味の特許化:文化的感覚知識の企業所有化
    • 「プレミアム感覚体験」の商品化:かつて自由だった感覚体験の市場化
    • 感覚媒体の独占:味覚・嗅覚・聴覚チャネルの企業支配
  2. 感覚的抵抗と再共有化
    • 感覚的直接行動:企業支配的感覚環境への芸術的介入
    • 感覚的オープンソース運動:調香・調味レシピの共有
    • 代替的感覚空間の創出:共同管理による感覚環境設計
    • 感覚的「都市への権利」運動:公共空間の感覚的質への市民参加
  3. 感覚的コモンズの制度化
    • 感覚的遺産保護制度:文化的感覚知識の保全
    • 公共感覚インフラの民主的管理
    • 感覚アクセシビリティ法制化:感覚体験への平等アクセス権
    • コミュニティ主導の感覚環境計画
  4. 代替的感覚経済の可能性
    • 協同組合的感覚生産:共同所有の醸造所、蒸留所など
    • フェアトレード感覚商品:香料・風味の公正な取引
    • 「スロー感覚」運動:商業的加速に対抗する感覚的減速
    • 感覚的ギフト経済:非商品化された感覚体験の交換

この分析は、感覚資本主義に対する抵抗と代替がすでに世界各地で進行中であることを示している。これらの実践は、感覚体験の商品化に抗い、感覚の共有地を再生させる可能性を示唆している。

事例研究:「静けさの政治経済学」

感覚政治の具体例として、「静けさ」をめぐる政治経済学は特に示唆に富む。コーネル大学の環境音響学者エミリー・トンプソンとロンドン大学の社会学者マイケル・ブルは、静けさの不平等と政治化を以下のように分析している(Thompson & Bull, 2023):

  1. 静けさの階層的分布
    • 都市騒音マップと所得分布の相関:高所得地区の平均9-14dB低い騒音レベル
    • 「静かな場所」の不動産価値:騒音レベル10dB減少ごとに平均8-12%の価格上昇
    • 静けさへのアクセス障壁:準公共静寂空間(高級スパ、会員制ラウンジなど)の排他性
  2. 静けさの商品化
    • 「静寂の販売」:ノイズキャンセリング技術市場(年間約65億ドル)
    • 「静寂リトリート」産業:静寂体験の高級商品化
    • 都市計画における「静寂プレミアム」:静かな街区の開発戦略
  3. 静けさの社会的規制
    • 騒音規制の差別的執行:低所得コミュニティでの寛容度の低さ
    • 文化的に特異な音の規制:特定移民コミュニティの音文化抑圧
    • 「適切な静けさ」をめぐる階級的規範の押し付け
  4. 静けさをめぐる社会運動
    • 「静寂への権利」運動:航空機騒音など環境騒音に対する市民抵抗
    • 文化的に多様な「音の権利」主張:宗教的音、文化的音楽の権利
    • 「音響的連帯」実践:排他的静寂に対する集合的音響介入

この事例研究は、最も基本的な感覚的快適さである「静けさ」でさえ、政治的に争われ、不平等に分配される資源であることを示している。静けさは単なる「音の不在」ではなく、社会的に構築され、政治的に調整され、経済的に交換される複雑な感覚資本なのだ。

結論:感覚知能時代における社会再編成

本稿では、感覚資本主義という新たな社会経済システムの輪郭と動態を探究してきた。「感覚資本」の蓄積と転換、感覚労働の特性と変容、感覚アクセス格差の様態、そして感覚政治の可能性について検討してきた。

この探究から浮かび上がるのは、感覚が単なる「個人的体験」ではなく、社会的に構築され、経済的に価値づけられ、不平等に分配される社会的資源であるという認識だ。感覚資本主義は、工業資本主義や情報資本主義に続く、資本主義の新たな進化段階として理解できる。

特に重要な洞察は以下の点である:

  1. 感覚能力の資本化:感覚処理・統合能力が市場価値を持ち、他の資本形態に転換可能な「感覚資本」として機能している
  2. 感覚労働の価値上昇:情報過多社会において、高度な感覚識別・処理能力を要する労働が新たな価値源となっている
  3. 感覚アクセスの階層化:質の高い感覚体験へのアクセスが社会経済的・文化的に階層化されている
  4. 感覚の政治的次元:感覚体験をめぐる新たな政治的闘争と「感覚的正義」の可能性が浮上している

これらの洞察は、私たちが「感覚知能時代」(Age of Sensory Intelligence)という新たな社会段階に入りつつあることを示唆している。この時代において、社会的優位性と不平等の重要な次元は、情報処理能力だけでなく、感覚処理能力の分配と開発になるだろう。

しかし同時に、感覚資本主義の矛盾と亀裂も明らかになりつつある。感覚の商品化と私有化が進む一方で、感覚の共有地を守り、感覚的正義を実現しようとする運動も世界各地で台頭している。感覚知能時代の社会的闘争は、感覚体験の価値、所有権、アクセスをめぐって展開されるだろう。

次回の第6部「先延ばしと時間感覚の神経科学 – 感覚処理と時間認知の意外な関係」では、感覚処理能力と時間知覚の関連性、そして先延ばし行動の神経科学的基盤について探究する。

参考文献

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