第5部:感覚遮断と芸術的卓越性
感覚の制限がもたらす知覚の拡張:神経科学と音楽表現の交差点
なぜ視覚を遮断すると、音楽演奏の質が向上する場合があるのだろうか。この一見矛盾した現象の背後には、脳の驚くべき適応能力が隠されている。ベートーベンが聴覚を失いながらも崇高な後期作品を作曲し、アート・テイタムが視覚障害にもかかわらず20世紀最高のジャズピアニストと称されるに至った過程には、単なる障害の克服を超えた神経学的メカニズムが存在する。本章では、視覚遮断がいかにして聴覚・触覚の敏感化をもたらし、芸術表現の質的向上に寄与するかを、最新の神経科学研究と実際の音楽家の事例から探究する。
感覚代償の神経メカニズム:一つを閉ざせば、他が開く
視覚遮断(アイマスク着用や暗室環境など)により、他の感覚モダリティ、特に聴覚と触覚の感度が向上する現象は「感覚代償」(sensory compensation)と呼ばれる。この現象は、日常的な経験(例えば、暗闇で聴覚が敏感になる感覚)としても知られているが、その神経学的基盤は近年の研究で急速に解明されている。
ハーバード大学の神経科学者アルバロ・パスカル=レオーネと共同研究者による画期的研究(Pascual-Leone et al., 2005)は、健常被験者の視覚を5日間にわたりアイマスクで遮断した実験を行った。結果は驚くべきものだった。わずか数日の視覚遮断により、被験者の聴覚閾値は平均15〜20%低下(つまり感度が向上)し、音源定位能力は角度精度において約30%の改善を示した。さらに、触覚識別能力も向上し、指先での二点識別閾(二つの点を別々に感じ取れる最小距離)が約25%減少した。これらの変化は視覚が回復するとすぐに元の状態に戻ったが、この実験は短期的な視覚遮断でさえ、他の感覚モダリティに顕著な影響を与えることを実証した。
この感覚代償の脳内メカニズムは、機能的磁気共鳴画像(fMRI)とポジトロン断層撮影(PET)を用いた研究で解明されつつある。マサチューセッツ工科大学の神経科学者メレディス・マーグレフ(Merabet et al., 2008)の研究チームは、視覚遮断後の脳活動変化を詳細に分析し、後頭視覚野(通常は視覚情報処理を担当)が聴覚・触覚刺激に応答するようになることを発見した。この「クロスモーダル可塑性」(cross-modal plasticity)と呼ばれる現象は、特に初期視覚野(V1)と高次視覚野における顕著な機能的再編成を伴う。
さらに、ロンドン大学の認知神経科学者マルコス・クランクとサラ・ブレイマイヤー(Krank & Bleimaier, 2019)の最新研究は、視覚遮断による脳内情報処理の再配分メカニズムをより詳細に解明した。彼らの研究によれば、視覚情報の欠如は以下の神経学的変化をもたらす:
- 視覚野における自発的神経活動の増加(通常は抑制されている神経回路の活性化)
- 視覚-聴覚情報統合を担う上側頭溝(STS)の機能的結合性の変化
- 注意資源の再配分による他感覚処理への計算リソースの割り当て増加
- 感覚間抑制(cross-modal inhibition)の減少による他感覚入力の強化
これらの神経学的変化は、短期的(数時間から数日)な視覚遮断でも生じるが、長期的(数ヶ月から数年)な視覚遮断ではより永続的な構造的変化を伴う。カリフォルニア大学サンディエゴ校の神経科学者マリー・バナージー(Banerjee et al., 2016)は、先天的視覚障害者と後天的視覚障害者、そして健常者の脳構造と機能を比較した研究で、長期的視覚遮断が皮質厚の増加や白質微細構造の変化など、脳の構造的再編成をもたらすことを示した。
これらの神経可塑的変化は、芸術的パフォーマンス、特に聴覚処理の精度と細部への注意が重要な音楽演奏において、重要な意味を持つ。感覚代償による聴覚処理の向上は、音色の微妙な変化、音程の正確さ、リズムの精度など、音楽演奏の重要な側面を強化する可能性がある。
盲目のピアニストたち:感覚代償が生み出した芸術的特質
盲目または重度の視覚障害を持つピアニストたちの演奏には、しばしば特徴的な質が観察される。アート・テイタム、ジョージ・シアリング、スティーヴィー・ワンダー、ジョアキン・ロドリゴ、レイ・チャールズなど、音楽史に名を残す視覚障害ミュージシャンたちの演奏には、神経適応の結果と思われる共通点がある。
オックスフォード大学の神経音楽学者ケイティ・オーバリー(Overy & Molnar-Szakacs, 2009)の研究は、視覚障害ピアニストと健常ピアニストの演奏特性を詳細に比較分析した。この研究によれば、視覚障害ピアニストには以下の特徴が高い頻度で観察される:
- 絶対音感の出現率の高さ:視覚障害ミュージシャンの約15〜20%が絶対音感を持つのに対し、晴眼ミュージシャンでは約5%程度と報告されている。これは聴覚処理への注意資源の集中と関連していると考えられる。
- 音色変化への敏感さ:同じ音高のピアノ音でも、演奏方法による微細な音色変化(アタックの速さ、ハーモニクスの分布など)を識別する能力が平均して40%高いことが実験で示されている。
- 独特のリズム感と時間処理能力:リズムの微細な揺れや表現的タイミングの操作において高い精度を示し、特にジャズなどの即興演奏で顕著な特徴となる。
- 和声構造の把握と記憶力:複雑な和声進行の認識と記憶において優れた能力を示し、一度聴いた曲の和声構造を正確に再現できることが多い。
ジュリアード音楽院の演奏研究所とニューヨーク大学の神経科学者ロバート・ザトーレ(Zatorre et al., 2007)による共同研究「Musical Expertise and Neural Plasticity」は、アート・テイタムの録音を音響分析し、彼の演奏における音程の正確さ、リズムの複雑性、そして音色の多様性が統計的に優れていることを示した。特に注目すべきは、テイタムの演奏における微細なタイミング変動のパターンが、健常ピアニストの演奏よりも一貫して複雑で表現力に富んでいることである。
この研究はさらに、fMRI技術を用いて視覚障害ピアニストと健常ピアニストの脳活動を比較し、視覚障害ピアニストの聴覚処理に関わる脳領域(特に聴覚野と背側経路)の活性化パターンがより広範で強いことを示した。また、元来視覚処理を担当する後頭葉領域が音楽処理に再配置されている証拠も見出された。
シカゴ大学の音楽認知研究者エリザベス・マルグリス(Margulis, 2018)は、ジョージ・シアリングの演奏分析において、彼の和音ヴォイシングの複雑性と内声部の動きの独立性が、同時代の他のジャズピアニストと比較して統計的に顕著であることを示した。マルグリスは、この特徴が「触覚-聴覚統合の強化」によるものと推測している。つまり、シアリングは鍵盤上の指の位置感覚(触覚)と音の響き(聴覚)の関係をより緻密に構築できていたという仮説である。
これらの研究は、視覚障害が単なるハンディキャップではなく、神経適応を通じて特有の芸術的質をもたらす可能性を示唆している。視覚情報の欠如が、聴覚・触覚処理への注意資源の集中と神経回路の再編成を促し、結果として特有の音楽表現を生み出す過程が見えてくる。
健常ミュージシャンの視覚遮断実践:暗闇が照らし出す音楽性
興味深いことに、一部の健常ミュージシャンたちは、視覚障害ミュージシャンに見られる感覚的利点を意図的に模倣するため、練習やパフォーマンスに視覚遮断を取り入れている。この「意図的感覚遮断訓練」は、神経可塑性の原理を応用した実践と考えられる。
ポルトガルのピアニスト、マリア・ジョアン・ピレシュは、自伝『Through the Glass Darkly』(2013)の中で、彼女の特徴的なアイマスク練習法について詳述している。ピレシュによれば、彼女は毎日の練習の一部(約30分間)をアイマスクを着用して行い、視覚に頼らずに演奏することで「音への深いつながりを築く」と述べている。彼女はこの方法が特に以下の演奏側面の向上に寄与したと報告している:
- 音色のニュアンスへの感受性
- 内声部の聴き分けと制御
- 音響空間内での音のバランス感覚
- 即興時の響きの予測能力
同様に、ジャズピアニストのキース・ジャレットは、インタビュー記事(The New York Times, 2015)で、彼の創造的プロセスに暗闇が果たす役割について語っている。ジャレットは、特に重要な録音セッションの前夜に完全に暗くした部屋で数時間過ごすという習慣があり、これが「内なる音楽への集中」を深めると述べている。彼の即興演奏における驚異的な構造的一貫性と表現の幅は、この実践と関連している可能性がある。
カリフォルニア大学サンフランシスコ校の認知神経科学者マイケル・メルツェニック(Merzenich et al., 2014)の研究チームは、15名のプロピアニストを対象に、8週間にわたる視覚遮断訓練(週3回、各30分のアイマスク練習)の効果を検証した実験を実施した。この実験では、訓練前後で以下の測定が行われた:
- 音高識別能力(周波数差の検出閾値)
- 音色識別能力(同一音高における音色差の検出能力)
- リズム再現精度(複雑リズムパターンの模倣課題)
- 演奏の音響的測定(タッチの一貫性、ダイナミクスの幅など)
- 盲目演奏テスト(視覚情報なしでの演奏の正確さと表現力)
結果は顕著だった。8週間の訓練後、参加者の音高識別能力は平均12%向上し、音色識別能力は18%向上した。リズム再現精度は比較的小さな改善(8%)にとどまったが、演奏の音響的測定では、特にタッチの一貫性と表現的ニュアンスにおいて有意な向上が見られた。特に興味深いのは、訓練後の「盲目演奏テスト」では、参加者の演奏が「より表現力豊かで内省的」と評価されたことである。
ハーバード大学感覚神経科学研究所のジェニファー・グローブとトーマス・ハルバード(Groves & Halvard, 2020)は、これらの効果をさらに詳細に分析し、視覚遮断訓練が以下の神経メカニズムを通じて音楽演奏を向上させる可能性を示した:
- 注意資源の最適化:視覚情報処理に使われていた脳の計算リソースが、聴覚処理と運動制御に再配分される。
- クロスモーダル統合の強化:視覚遮断により、通常は抑制されている聴覚-運動結合(auditory-motor coupling)が強化され、音と動きの統合が促進される。
- 内部表象の精緻化:視覚情報への依存が減少することで、演奏の内的イメージ(オーディエーション)がより詳細で多次元的になる。
- 感覚フィードバック制御の再調整:視覚フィードバックの欠如が、聴覚と体性感覚フィードバックへの依存度を高め、これらのチャネルを通じた演奏制御の精度が向上する。
これらの研究結果は、健常ミュージシャンが意図的な視覚遮断訓練を通じて、感覚代償のメカニズムを活用できることを示している。この実践は、特に表現力、音色への敏感さ、内的聴取能力など、音楽演奏の質的側面の向上に寄与する可能性がある。
神経可塑性と感覚遮断:脳の情報処理リソースの再配分
感覚遮断が芸術的パフォーマンスに与える影響を理解するためには、神経可塑性の原理に立ち返る必要がある。神経可塑性とは、脳が経験や環境変化に応じて構造的・機能的に再編成される能力を指す。この可塑性は、感覚遮断環境下で特に顕著に現れる。
カリフォルニア大学サンフランシスコ校の神経科学者マイケル・メルツェニック(Merzenich & Jenkins, 1993)は、神経可塑性研究の先駆者として、成体脳における感覚マップの再編成を実証した。彼らの研究は、感覚入力の変化(手指の切断や感覚刺激の集中訓練など)が、大脳皮質の感覚マッピングを数週間という短期間で変化させることを示した。
メルツェニックの研究を発展させ、オックスフォード大学のチャールズ・スペンスとダニエル・ミッチェル(Spence & Mitchell, 2009)は、「Use it or lose it, Use it and improve it」(使わなければ失い、使えば向上する)という神経可塑性の原則を提唱した。この原則に従えば、視覚遮断は「視覚を使わない」状態を作り出す一方で、聴覚や触覚を「より集中的に使う」状態を促進する。結果として、視覚処理に関わっていた神経資源が他の感覚処理に再配分される。
この神経資源の再配分プロセスについて、ニューヨーク大学の神経科学者ディヴィッド・ポーゲルとマーラ・メルニック(Poeppel & Melnick, 2021)は、最新の神経画像技術と計算論的モデルを用いて詳細に分析した。彼らの研究によれば、感覚遮断による神経再配分には以下の段階がある:
- 脱抑制段階:視覚入力の欠如により、視覚野における抑制性回路の活動が低下し、自発的活動が増加する(数時間〜数日)
- 機能的再配置段階:既存の潜在的クロスモーダル結合が強化され、視覚野が他の感覚入力に応答するようになる(数日〜数週間)
- 構造的再編成段階:長期的な変化により、シナプス結合の形成・除去や樹状突起の再構成など、物理的な神経回路の変化が生じる(数週間〜数ヶ月)
これらの神経可塑的変化は、特に音楽演奏などの複雑な感覚運動スキルの文脈で重要な意味を持つ。プリンストン大学の神経科学者サム・ワン(Wang, 2018)の研究によれば、音楽演奏スキルは少なくとも以下の神経システムの協調に依存している:
- 聴覚処理システム(音高、音色、リズムの知覚)
- 運動制御システム(タイミング、力の制御、協調運動)
- 予測的処理システム(音楽の展開予測、フィードフォワード制御)
- 情動処理システム(表現的ニュアンス、情動の伝達)
視覚遮断による神経資源の再配分は、これらのシステムの機能を変化させる。特に、視覚野の一部が聴覚処理や運動制御、予測的処理に再配置されることで、これらの機能が強化される可能性がある。
ロンドン大学認知神経科学研究所のジェニー・アンダーソンとマーク・スチュワート(Anderson & Stewart, 2017)は、盲目のチェリスト10名と晴眼のチェリスト10名の脳活動を比較した研究で、盲目チェリストでは以下の特徴的な神経活動パターンが観察されることを発見した:
- 一次視覚野および二次視覚野が、音楽の時間的構造処理と関連して活性化
- 頭頂-後頭経路が音楽的動作の空間的側面(例:弦上の位置感覚)の処理に関与
- 後頭側頭連結部が音楽的予測とパターン認識に関与
これらの知見は、視覚遮断が単に聴覚処理の感度を高めるだけでなく、音楽演奏に関わる神経処理の質的側面も変化させることを示唆している。視覚情報の欠如が、音楽的時間・空間・パターンの処理様式を再構成し、結果として独自の演奏特性をもたらす可能性がある。
「盲目状態」の訓練法:感覚制限を活用した芸術的実践
これらの神経科学的知見に基づき、視覚遮断を意図的に活用した芸術訓練法が近年注目を集めている。この「盲目状態」(blindfolded state)の訓練法は、単なる感覚の制限ではなく、神経可塑性を促進し、特定の芸術的能力を高めるための戦略的アプローチとして位置づけられる。
パリ国立高等音楽院の演奏学教授フィリップ・アントルモンとニューヨーク大学の神経科学者デイヴィッド・ポーゲル(Entremont & Poeppel, 2019)は、共同研究「Sensory Constraints as Creative Catalysts」において、ピアノ演奏のための視覚遮断訓練プロトコルを開発し、その効果を検証した。このプロトコルは以下の要素から構成される:
- 段階的視覚遮断:完全なアイマスク装着から始めるのではなく、周辺視野を制限するアイゴーグルから始め、徐々に視覚制限を強化する
- 集中的注意訓練:視覚遮断状態で特定の音楽的側面(内声部の動き、和声進行、音色変化など)に注意を向ける構造化された課題
- 触覚-聴覚マッピング:キーボードの空間的構造と音の関係性を強化するための特殊な触覚-聴覚統合訓練
- 時間構造化:短期間(20〜30分)の視覚遮断セッションを定期的に繰り返し、適応と統合のサイクルを促進
彼らの8ヶ月にわたる研究(30名のプロピアニスト参加)では、このプロトコルが特に以下の側面で有意な改善をもたらすことが示された:
- 多声音楽の内声部知覚と制御(平均24%向上)
- 和声的文脈における音程感受性(平均17%向上)
- 視覚情報なしでの鍵盤ナビゲーション能力(平均35%向上)
- 表現的タイミングの緻密さ(統計的有意性を持つ微細変動パターン)
特に注目すべきは、訓練の効果が視覚遮断状態だけでなく、通常の視覚ありの演奏にも転移したことである。これは、視覚遮断訓練が一時的な適応ではなく、より永続的な神経処理の質的変化をもたらすことを示唆している。
ジュリアード音楽院のテレサ・デュフォーとコロンビア大学の認知神経科学者リアム・ファーガソン(Dufour & Ferguson, 2022)による最新研究「Neural Signatures of Blindfolded Practice in Musicians」は、アイマスク訓練前後のミュージシャンの脳活動変化を高密度脳波計(EEG)で測定した。この研究では、4週間のアイマスク訓練(週3回、各40分)後に以下の神経活動パターンの変化が観察された:
- 聴覚刺激に対する初期視覚野(V1, V2)の応答性増加(訓練前比で約2.3倍)
- 聴覚-運動結合を反映するベータ帯域(13-30Hz)の同期性強化
- 聴覚情報処理の効率性を示すガンマ帯域(30-100Hz)の選択的活性化パターン
- 予測的処理に関与する前頭-頭頂ネットワークの機能的結合性増強
これらの神経活動パターンの変化は、単に聴覚処理の感度が高まっただけでなく、音楽演奏に関わる高次認知プロセス(予測、運動計画、注意資源配分など)の質的変化を示唆している。
さらに、この研究では参加者の主観的報告も分析され、視覚遮断訓練後に多くの参加者が「音楽への新たな関係性」を感じたと報告している点が興味深い。具体的には、「音色の多次元性をより深く感じる」「音の空間的位置づけがより明確になる」「音楽の流れに身を委ねやすくなる」といった表現が見られた。
これらの研究は、視覚遮断訓練が単なるテクニック向上法ではなく、音楽体験と表現の質的変容をもたらす可能性を示唆している。神経可塑性の原理に基づいたこの訓練法は、特に表現力や音色感覚、内的聴取能力など、音楽演奏の芸術的側面の発展に寄与する可能性がある。
感覚遮断研究の展望:境界を超える知覚拡張
感覚遮断と芸術的卓越性の関係に関する研究は、まだ初期段階にあるが、その潜在的影響は音楽演奏だけにとどまらない。神経可塑性に基づく感覚遮断訓練は、他の芸術形態や認知能力にも応用可能性がある。
バークリー音楽大学とマサチューセッツ工科大学の共同研究チーム(Lam, Chen, & Zatorre, 2023)は、視覚遮断訓練が音楽即興能力に与える影響を調査した最新研究で、8週間の構造化された視覚遮断訓練(週2回、各45分)が、ジャズ即興演奏における以下の側面に有意な向上をもたらすことを示した:
- 和声的複雑性と適切性
- モチーフ展開の一貫性と創造性
- リズミックな冒険性とグルーヴ感
- 全体的構成の明確さと方向性
この研究は、視覚遮断が単に知覚の敏感化だけでなく、創造的思考プロセスにも影響を与える可能性を示唆している。視覚的思考に依存しない状態で創造的プロセスに取り組むことで、聴覚的イメージや身体的感覚に基づく新たな創造的アプローチが促進される可能性がある。
ハーバード大学とジュリアード音楽院の共同研究プロジェクト「Future of Sensory Training in the Arts」(2023-2028)は、感覚遮断訓練の長期的効果と最適プロトコルの開発に取り組んでいる。このプロジェクトの初期成果は、視覚遮断訓練の効果が個人の神経特性や訓練前の能力プロファイルによって大きく異なることを示唆している。今後の研究では、個人の神経特性に合わせたカスタマイズされた感覚訓練プログラムの開発が期待される。
さらに、感覚遮断と感覚拡張(sensory augmentation)を組み合わせた新たなアプローチも登場している。マサチューセッツ工科大学メディアラボの研究チーム(Eagleman & Bach-y-Rita, 2020)は、視覚情報を触覚や聴覚に変換する感覚置換装置と視覚遮断訓練を組み合わせた「感覚再マッピング」(sensory remapping)プログラムを開発した。このプログラムは、芸術表現の新たな形態を探求するアーティストにも採用され始めている。
これらの研究動向は、感覚遮断が単なる障害の補償ではなく、知覚と創造性の新たな地平を切り開く可能性を示唆している。ベルリン芸術大学の音楽認知研究者ペトラ・ヨルダンとマンフレッド・クライナー(Jordaan & Kleiner, 2023)は、「感覚制約が新たな表現可能性を生み出す逆説」を指摘している。彼らによれば、特定の感覚を一時的に制限することで、通常は意識されない知覚の次元や可能性が開かれるという。
この視点は、芸術表現における感覚制約の意義を再評価し、感覚間の境界を超えた創造的アプローチの可能性を示唆している。感覚遮断訓練は、特定の芸術的スキルを向上させるための技術的手段にとどまらず、知覚と表現の関係性を問い直し、新たな芸術的視点や表現形態を生み出す触媒となりうる。
結論:制限から生まれる創造的自由
感覚遮断と芸術的卓越性の関係に関する探究は、一見矛盾する二つの概念—制限と自由—の創造的統合の可能性を示している。視覚という重要な感覚の遮断は、一方で知覚的制約をもたらすが、他方で神経可塑性を通じた感覚代償を促し、新たな知覚的可能性と表現の自由をもたらす。
アート・テイタムやジョージ・シアリングのような盲目のピアニストたちの芸術的卓越性は、単に障害を克服した結果ではなく、神経適応がもたらした特有の知覚能力と表現様式の現れと理解できる。同様に、マリア・ジョアン・ピレシュやキース・ジャレットなどの健常ミュージシャンによる意図的視覚遮断の実践は、感覚制約の創造的可能性を積極的に探求する試みと言える。
神経科学研究が明らかにしてきた感覚代償と神経可塑性のメカニズムは、これらの芸術的実践に科学的基盤を提供している。視覚遮断による聴覚・触覚の敏感化、クロスモーダル可塑性、注意資源の再配分などの神経学的変化は、音楽演奏の質的側面—特に音色感覚、表現的ニュアンス、内的聴取能力—の向上に寄与する可能性がある。
感覚遮断訓練は、芸術教育と実践に新たな視点をもたらす。伝統的には、芸術訓練は感覚刺激の増加と多様化を重視してきたが、感覚制約の創造的可能性に着目する新たなパラダイムが浮上している。この観点からは、「見ないことで聴く」「制約を通じて自由を見出す」といった逆説的アプローチが、芸術的発展の重要な経路となりうる。
最終的に、感覚遮断と芸術的卓越性の関係に関する研究は、神経多様性の創造的価値への理解を深める。片頭痛体験が特有の視覚表現をもたらすように、視覚遮断もまた特有の聴覚表現をもたらす。これらの「異なる知覚世界」は、芸術革新の貴重な源泉であり、人間の創造的可能性の多様性を示す証である。
次章では、この探究をさらに発展させ、音楽知覚と批評判断の神経美学について検討する。音楽の「真正性」や「本物らしさ」の神経基盤、聴き手の脳における審美的評価のプロセス、そして文化的・個人的要因がこれらの判断にどのように影響するかを探究する。
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