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論理と解釈が導く教育の真髄

歴史の構造を捉えようとすると、それは単なる出来事を年代順に羅列したものではないことがわかってくる。基本的・初歩的な見方では、出来事をただ並べることにほとんど意味がなく、解釈を加えることで初めて命を吹き込まれると考えることができる。

「歴史」という言葉の表面的な限界を分析すると、過去の事象を現在に記述することに限界があることが見えてくる。こうしてみてくると歴史は論理ともいえるわけで、教育やその目標の提唱でさえも現在観測できるものではなく、過去を振り返って確定し結論付けるという意味でこちらもまた論理であると考えられる。

高次的な言葉に対して低次な様相を感じるとき、例えば「方向性」を言葉から感じ取ることができる。数直線で表現される戻る感覚として、「歴史」には再帰的な視点を伴った意味付けが潜在的に含まれていると理解できる。

また、「能力を何点まで上げる」や「~をできるようにする」などの教育目標は、現在の視点から未来を希望的に述べるものである。将来に過去を振り返って初めて確定する歴史的文脈による意味付けにおいては、本来のポテンシャルから意味が削り取られた「教育」が語られることになる。つまり、意味が変容しているのだ。

1年後の出来事を単純に予測し、それを現在の観測地点から希望的に述べることは「歴史」であるはずがない。未来に託した教育目標も同様に当てはまるわけはなく、その設定表現は誤りであるといえる。

このように考えると、私は以下の判断に至る。教育やその目標を提唱する際、「文脈の中で未来的要素が含蓄される文体であってはならない」。すなわち、「断片化した文体においてすべて再帰的である限り教育は意味を失わない」というのが真の正解の可能性を秘めるのだという考えに帰結した。

 

確定事象の整理が論理であるならば、「教育」の定義の真実性は、時間的距離で迷走しない範囲における「正しい想像」の中にある。これを前提とすれば、教育とは単なる情報伝達や知識の授受ではなく、未来の形態を現実に対して想像し、正しく具現化する過程である。

教育の本質を理解するためには、まず教育の目的と方法について考察する必要がある。教育の社会的目的は、個々の潜在能力を最大限に引き出し、社会全体の知的および道徳的進歩に貢献することにあるが、社会的目標の参加権には個の狂乱が達成されていなければならない。教育者は、単なる知識の提供者ではなく、未来を見据えた指導者としての役割を果たさなければならない。故に、未来や時間と相手が十中八九思っている代物が、誤認の塊であることを正しく納得してもらうことから始めなければならない。教育者の有無に拘わらず時間的マインドブロックの破壊に成功した者は、個の狂乱が成されずに生きている状態が、世界に対しての重罪であると理解し、その目的に向かっていない状態がもどかしく感じる体に変化していなければならない。あなたがその目的の達成に対し怠惰である時は、究極的に目の前にいる人の息の根を止める手伝いをしている状態と同義であるということ感情想像的に追体験できなければならない。

教育が時間的距離で迷走しないためには、教育者自身が常に未来を見据え、変化し続ける社会のニーズに対応できる柔軟性を持つことが不可欠である。他者からの改変を避けるためである。解釈はゴールであり、未来であってはならず、未来を見た者には根気強くゴールに引き戻す作業が必要である。

教育の成功は、その瞬間の成果ではなく、時間をかけて実現されるべき理想の具現化によって評価されるべきであり、持続性を持った自律的呪いの付加に成功したかどうかで見極めるべきである。自律性が再帰的な意志と挑戦を補助し、持続性を伴うことで、未来を見たときに失うかもしれない狂乱の再獲得ができる期待値を上げられるからである。

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