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大学要・不要論の落としどころ

二者択一という狭い視界に囚われる必要はない

私の結論は、正直なところどちらでも関係ないと思っていて、

あえてどちらかに決めるとしたら不要だと考えています。

ショーペンハウアーも自分が学び舎だと思ったところが学校であると考えていました。

 

しかし、実はそれで決定できないというのが

今回のテーマの本質です。

 

学校というところは、大雑把に言えば学びの場です。

学びの場へ出向くことはとても素晴らしいことだと思います。

 

矛盾するようですが、

残念ながら機関としての学校に出向くことは

必ずしもメリットがあるわけではありません。

 

 

人が何かを発言する時、経験者か未経験者に分かれる

大学が必要か、不要かで議論する時、

議論する人は必ず

「大学経験者」と「大学未経験者」に分かれてしまいます。

 

先に大学未経験者から見ていきます。

大学未経験者は大学経験者と

単純に学習難度と進度の観点のみで比べた場合

どうしても大学経験者より劣ってしまうことが多くなるでしょう。

この段階ではまだ個々の能力や経験の差は考慮していません。

 

よって、学問の世界観が小さくそれを体験していない以上

いかに自分の方が様々な経験もしていて

そして、相手がそうでないような時でも

自分より上位の「経験」を積んでいることになる

青臭い大学経験者の価値観を否定することができません。

 

大学未経験者が大学必要論を唱える時、

自分が経験できなかったことによる、

羨望の対象としてのバイアスは否定できません。

もちろん「ちゃんとそれも考慮して考えた」というのはナンセンスです。

 

大学経験者が大学必要論を唱える時、

自分が属している集団または属していた集団であるため、

内集団バイアスを否定することができません。

 

また、

大学未経験者が大学不要論を唱える時、

同様の理由で内集団バイアスを否定できません。

 

大学経験者が大学不要論を唱える時、

第一に大学未経験だった場合の自分の感覚とは比較できないことと

(もし比較できたとしたら、

大学を経験しなかった自分の方が、大学を経験した自分よりすぐれているかもしれない。

意思を持つ媒体は自分自身で同じはずなのにもかかわらず、です。)

 

第二に、大学経験者は大学未経験者より

学歴に対する社会的心理的負担(世間で学歴コンプレックスと言われるもの)が小さく、

大学未経験者の心理的な不安を深く考慮してあげられない点です。

 

その他の理由として

大学を不要としたのは自分自身であることです。

言い換えると

大学は本来必要なものであると仮定した場合

大学経験者であるのに不要論を唱えることになったのは、

大学に意味を持たせようと行動しなかった自分自身にあるということです。

もちろんここでの仮説の是非はまだ問えません。

 

大きくわけてこれらの理由から

大学経験者は大学不要を

唱えるには弊害が多いというわけです。

 

 

結論は難しい。やはり信ずるものは己のみということ。

つまり、

大学未経験者のままでは大学の要不要を問うのは難しく、

大学未経験者が大学経験者になった瞬間に内集団バイアスにより

大学必要論を唱えることができなくなり、

大学不要論は上記のような理由により唱えることはできません。

 

大学経験者が純粋な大学未経験者になることは、普通はありません。

不可逆的であるということです。

 

また、人はみな自分の選択を否定することはなかなかできません。

今いる環境を否定することは、自分の人生の否定に繋がる可能性があるからです。

 

今回は議論を簡潔化しましたが、

本当の答えを出すというのは難しいものです。

 

世の中には答えなど出さなくてもやっていけることの方が多いくらいなので、

気を少し楽にして、でも、探求することは忘れずに

日々学び続ける人が一番輝いていると思います。

 

本質を定義づけるとも言えるかもしれません。

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