誤解しないでいただきたいのは、
どの年代とも仲良くしろと言っているのではありません。
例えば初めて会う人やその人がどういう人なのかを知りたい時に
最初から「ダメだ」と否定する姿勢ではなく、
「どんな人だろうか?」と興味をもって相対する時に活用したい考え方
ということで紹介しています。
①西暦換算できるようにしている
大正・昭和・平成・令和・西暦、どの表現をよく使うかは
その人の過ごした環境や考え方によるところが大きいです。
だから、こっちに合わせろ!という怠慢な姿勢ではなく、
お話していただく相手への感謝と礼儀として
いつでも換算できた方が不毛な争いと感情が排除できます。
②相手の方が中心とするパラダイムや信念を感じ取る
年代が上がるほど、人間味というものは醸成していくものです。
しかし、一歩間違える(生き方をした人は)腐敗して害を成すものとなります。
これは食べ物とまったく同じシステムです。
そして、両者とも共通しているのは時間とともにその強さが増すという点です。
前者のような方はとても素晴らしい思想や信念を持つことが多々あります。
後者のような方の場合も、害悪的な信念を固執するように持っていることがあるので、
かかわらなければいけない場面があるとすれば、
それを瞬時に感じ取っておくことで結果的に、
互いによりよい可能性を得られることに繋がります。
③建前が好きな相手か本音が好きな相手か一瞬で見極める
私は普段本音で話します。
しかし本音が大切であることに気づけずに人生を怠慢に
生きてきた「本音が苦手な人」もいます。
(訓練不足ということ)
その場合少しオブラートに包む割合を増やします。
相手がまだ不満という顔をしていればどんどんレベルをさげていきます。
この繰り返しです。
④自分のわからない話が万が一出てきたとき、「わからない」ではなく「知りませんでした!それ、もう少し深く教えていただけませんか?」と聞く。そして話をしてもらい、全力で理解し、興味と感想を示す。
わからない話が出てきたときは「学びのチャンス」と思って
正直に知らなかったことを伝えます。
ただ、同時に「もう少しそのことについて教えていただけませんか?」
という姿勢を見せます。心の底からです。
自分の知っていることを崇拝の目で教えを請われれば嫌に感じる人はいません。
しかも得意げに話す場を差し出せばお互いに良い感情を増幅させることができます。
また、最後の締めとして感謝や感想を伝えます。
慣れない内は知識のなかったことについて感想を言うのは少し難しいかもしれませんが、
思ったことを誠実にぶつけることができれば
それが一番良いことであるとわかってくるはずです。
⑤自分以外の年代の方(上も下も)の追体験を日々心がけ、常に哲学的でいる
私たちは、脳という組織で自分の意識を統制しています。
あまり、実社会では気づきにくいことですが、
私たち人間は、一つの頭を使って自分一人についてエネルギーを割きがちです。
もし他者を考えたとしても、家族やその親類など存在の近いごく少数でしょう。
実は、ここではかなりハイレベルなことを要求しています。
モチベーションの格差が出てきてしまうところでもあります。
この概念に関しては、
「どの年代の人とも」というよりは、
「人間に向き合うに際して」と考えた方がより自然です。
基礎的な段階では、人は一人の時間を生きています。
言い換えれば他者の感覚を生きていないだけではなく、
その時間を考える訓練をしていないのです。
他から一歩抜きんでるという意味だけでなく、
他者のしていないことを積極的に行う姿勢は多様性が認められる現代においては
最強のスキルとなり得る可能性を秘めています。
⑥それぞれの人は、それぞれの個別の事情を抱えていることを理解する
どんな人でも「これだけは!!」と思っている小さな不安や悩み、
片づけてしまいたい事柄などを抱えているものです。
そういう段階を卒業して常に最良のマインドを持つ人はいいですが、
一般論として、です。
そして、人によってはそれがかなり表面化して見えやすくなってしまっている人もいれば、
感じさせないように奥底に押し込めている人もいます。
両者どちらの場合であっても、繊細に扱うべきです。
これは必ずしもすべての人ができていることではないからこそ、
この繊細さ・気遣いを相手は感じとります。
結果として、それが信頼の糸口に繋がります。
⑦日々なんらかの勉強を続ける
忙しさを言い訳にしないことはもはや当たり前ですが、
常識かつ習慣として生活できることが大事です。
「資格マニアは成功しない」
「浅く広くより一点突破」
「これからはプログラミング」
「学校の勉強は実社会で役立たず」
これらのようによく嘆かれることは、すべて意味を成しません。
どう活かしていくのかが重要なのであって、
やらない言い訳を作っていい理由にはなりません。
知らないことで「損をする」のは結局自分なのであって、
「損害」を与えてしまうのは
怠慢な自分と出会ってしまった相手であることを肝に銘じて生きるべきです。
⑧できなかった頃の自分を忘れない
文字のままです。
年を重ねるごとにできることは増えていき、慣れに代わり、
そこまでの過程を忘れがちなものです。
たいていの場合、その過程は本人にとって宝物であるはずなのに、
結果ばかりを求める定量的な人間に囲まれている時ほど
宝物に蓋をしてしまいます。
もちろん、結果をいかにだすかは非常に大事なことですが、
できない人にとっては定量的であることは重荷です。
定性的面は、定量的面と補完関係にあるので両方は並列して扱わなければいけません。
しかし、いったんできるようになると、
結論ばかりが目に付くため、無自覚に定量的になることがあります。
無自覚というのは、人に多大なる損害を与え続けます。
末期の無自覚まで進行すると、治療法はありません。
そして、純粋な気持ちをまだ持っている人が、
心を折ってしまい定量的な人間になってしまうと
親と子の連鎖のように、会う人との負の連鎖を断ち切れなくなってしまいます。