生命の本質を見る
私たちの生命は一人一つです。
よって
死にかけるという体験自体に死ぬ可能性が孕んでいるため
進んでこの経験を獲得しに行くこと自体まずやろうと思えません。
何の縁かはわかりませんが
私は―私自身を含めて―死にかけたことのある人とよく会います。
彼らに共通することはいくつかあります。
最も強く感じることは、肝が据わっていること。
それと、
日々を大切に
そして様々なこと・モノ・人を
愛して過ごしていることです。
私は、この感覚はすべての人が産まれもっているものと感じます。
同時にテロメアのように消失していく感覚であると考えています。
これは、社会環境によるものが大きいですが
大部分の人が忘れてしまうので
本来の性質を忘れることに違和感がないのだと思います。
生と死の可逆性を考える
死というものを現実的に考えることは
人間的成長に必ず繋がります。
思考のみの体験は現実的な体験には敵わないのですが、
死に関しては直接体験がなかなかできないので
常に考え続けるしかないのです。
一般的には有り得ないことだとしても
それが目の前でおきたとき
私たちはそれを奇跡と捉えて終わることが多いですが、
死にかけたことがある人の多くは感謝をします。
感謝の対象はとても広いので一概には言えないのですが
敢えて一括りにするとしたら「縁」です。
また日本人は信仰心が薄いので煙たがられるかもしれませんが
神(またはそれに類似するもの)への考え方が寛容になり、
同時に必ずと言っていいほど
己の中に神、それに類似するものによる信念の軸を創っています。
平たく言えば、様々なことに強くなるのです。
当たり前ですが
私たちの人生がずっと上昇し続けることも転落し続けることもありません。
どこかで必ず転換点を迎えます。
死を間近に体験するとは、人生の上昇への転換点を意味します。
上昇していた場合はさらなる成長を、
下降していた場合は上昇への転換の兆しとなります。
これはあくまで私の推察でしかないのですが、
「死」がこのような正の転換点となるのには
体験者がちょうど過去の自分の皮を脱いで、
一般の人々が向き合うことが難しいであろう
自分の弱さや無意識に正当化してしまうような醜い心を
受け入れることができるようになることに起因するのではないか
と考えています。
死の本質が生の裏返しであるならば、
死とは生を考えることと同義です。
生命欲が死の寸前の最も強い欲望だとすると
これが途絶えることが死なのだから、
死が多くの人間の恐怖の対象であることは納得できるはずです。
しかし、生の本質が見えていないから、死の本質も見ることもできません。
生死はただの行き違いなのです。
ただ、本質に戻ることです。
この世に生をうけることが皆に祝福されるならば、
死ぬこともまた喜ばしいことなのです。
死を忌むこととは、生を神聖視することです。
そしてこれは、
死を神聖視し、生を忌むこと。
世の中で人間関係の縺れが生まれるとは結局こういうことなのです。
そういうわけで、
死にかけたことのある人とは真心から人を愛し接するために
尊敬され、結果、人との縺れも少なくなり運命を自ら招き寄せるのです。
死を論じた書物・文献は世の中に溢れているのですから、
自分なりの死(生き方)を
生きている限り模索し続け、更新し続けていくべきだと思います。
2020年1月にGoogle AdSenseとAmazonアソシエイトの審査に合格した時の記事状況などを考察する
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