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幸福の微分性のみに依存することは視点が狭い人生を創り上げることに繋がる

幸福の議論は難しいものの一つである。

「定義すること」とは、はっきりさせること、

すなわち抽象性を排除して具体性に焦点を当てることで曖昧性を潰すことである。

これを踏まえたうえで、少しばかり勇気をもって

幸福の概念に一つの終着点をつけるとすれば、それはおそらく

「曖昧性を残した定義を正しい定義であると認めること」である。

 

これと反して、私はいつか将来、

「曖昧性を排除した具体的な幸福の定義が認められる瞬間」

というものは来ると確信している。

 

現代においてすべての評価される物事や概念は、

現在の時点を以って説明可能なもののみにおいて「本質」という名が与えられる。

これは逆に言えば、概念が今の世界に追いついていない場合においては

非自明的な説明しかなされないため「本質」の冠を授けられることは許されないとも言える。

これと同じくして幸福については「言うまでもなく幸福は個人によって変わる」

という言葉によってその深淵を覗くことを許されておらず、

偶然かはたまた必然的にその瞬間を垣間見ることの叶った個人にしか閲覧を許されていないものとなっている。

 

自分が今いる場面において、

その物事の真髄を見る前に自己流の解釈をするのは間違っているかもしれないが、

ミクロな視点で見たとき、その時々の一瞬の状態によって気持ちが変化する

ということは我々どんな人間にも多かれ少なかれあり、

幸福という中空に浮いている気がするこの概念は、

その一瞬という時間を捉えることができるという観点から微分の可能性を示唆している。

 

我々は、普段からさまざまな競争に晒されているが、

実は競争にはすべて参加する必要はないにも関わらず、無意識に、

まさに見えざる手によってほぼすべてのことに対し根幹の気持ちの部分に競争的焦燥を隠している。

 

このことに気づくと、いつかはやらないことを選択していかなければならないだろうという証明不可能な、しかし十中八九正しいと思えることを選択していくようになる。

これは、今まで無限にある気がしていたものが、

実際には元から、あるいはいつからか時間経過によって有限に変わってしまったのだと気づき、その牌を自身の脳の命令のままに何とかして取らなければという思考に切り替わっていると捉えることができる。

 

こうした焦燥感は、常に不安を付随させており、

ある瞬間は現代で何らかの形で定義された幸福の状態であったにも関わらず

この焦燥的不安によって少なくとも純度100%の幸福状態から崩れた形にはなっているはずである。

 

不安を感じないことが幸福だとするならば、死ぬまでの時間においてミクロな視点では一瞬の落ち込みも許されない状態のみを指すことから微分を軸に幸福を求めることは恐ろしく難しく、限りなく不可能であると思える。

そうして考えてみると、死ぬまでをマクロな視点で捉え、ミクロな視点を排除することで完全たる幸福に言及できそうだが、完璧な排除は潜在的にある焦躁的不安感というものが人間にある限り難しそうであると考えると、それに準じた考え方で、死ぬまでを「アベレージで評価する」というのは発想的には悪くないとも言える。

アベレージの利点の一つは偶発性を消失させる評価力が大きいと言える点であり、

人生で存在した瞬間的不安は、死ぬまでの全時間に対して今回起きた悲劇を即座に均すことで、揮発性の高かった悪性的な腫瘍が昇華し現実化することで起きた突発的な不備に対してとても強力な影響を以って対抗してくれると期待できる。

しかし、この考え方では死の瞬間を自分自身で理解していないと実現できないため、その手段は欠陥がある。

こうしてみてみると、幸福の真髄とはおそらく時間微分だけでは解決できない概念なのであろうことは容易に想像がつくはずである。

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