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「システムとしての思考の流動性」を考察すると、波及範囲の最終地点として世界の粘性を高めている要因の一つになっているのが、実は「嘘への寛容」という社会的態度にありそうである。
特に、子供の嘘を軽視しすぎている親が多いことは第一の罪である。
責任とは、負ったり取ったり果たしたりすることが一般的とされるが、私は逓減させ、摩耗させ、損失させる対象であるべきだと思っている。要は回避や遠ざけておきたい対象ではなく、消化減却するイメージで段階的に扱い、「目の前のニンジン」的な扱いを受けるべきだと考えているわけだ。
嘘と責任の誤用は思考の流動性を早期に硬直化させる。自身の本能と潜在的にパッチしない表現を基に生成された獲得的思考は、奔放な自由を制限付き自由に変えて流れを引き込む。つまり形質転換するというわけである。
制限を受け柔軟性を失った状態のエネルギーは、全て燃焼されることはない(迷子になる)ため、それは心の奥底に蓄積していく結果があることを意味し、近い観測の地点ではこの場に留まることを強制する重力井戸のように働く。
堆積するものを質量の替え玉だと捉えれば、それが増えることも、この摂理的現象の裏付けをしてしまうことを鑑みて、おあつらえ向きな証拠の一部と言えるかもしれない。
軸という言葉が喚起する、強固な一本やりのような一筋の芯のイメージを創り上げることは、ある意味仕方ないともいえるが、それは教育の賜物と皮肉ることができる代表である。軸とは本来どういうものか再定義すべき優先順位の高いものの1つであって、簡潔に言えば、軸とは存在性のない確固たる存在のことである。つまり、渦巻きの様相のことである。真の軸は認識した段階で軸ではない。
先に周りの働きかけがあって、それに準じて、何もないが系としてブレない均衡的な点とその平衡が現れるのである。皆捉える順番を逆にしているのだ(ただし、注意しておくが軸の確立は旋回的であることは必須ではない)。
しかし、逆だけの(母体の存在を知っている)認識ならまだしも、逆からの省略形に慣れているとその母体は意識から霧散していくし、もし環境がネイティブからならその存在そのものがその者にはないかもしれない。意識はこの歪みの周囲を螺旋状に周回しながら、自ら形を主張し、そしてまた自らの重心を見失っていく。
意識の深層において違和感として感知できる位相的歪みは、自己駆動的な性質を帯びている。それは思考の純度を保持しようとする意志と、その意志自体を溶解させようとする反意志との間で生まれる奇妙な共振である。
対立の間隙には、そしてその共振には、もちろん「軸」と呼ばれる関係性がシステムとして確保されているはずだ。
思考の純度という発想はシステムの自己保存性への過剰な信頼から生まれるが形而上的な転回点における意識は、むしろ不純物との接触を通じて活性化される。
異物の侵入がグラデーションへの挑戦権となる。
それは免疫系が異物との遭遇によって進化するように、意識もまた異質な要素との衝突を通じて自己を再編成していく。ここでいう異質な要素とは、必ずしも外部からの侵入者を意味せず、意識の深層に潜む未知の横ずれ断層、あるいは意識そのものが持つ未発見だが命ある自己否定性が本質的な異物として機能する。
存在論的な視座から見れば、意識の崩壊プロセスは不可避の宿命とは言えず、崩壊への予兆が意識の自己組織化における触媒として作用する。自己崩壊の閾値の操作が転位になることを疑わないことが必要である。冒頭にあった責任の逓減性とは、この文脈において特異な意味を持つ。責任がその意味として宿す「重り」的な性質は、意識の位相空間において非対称的な歪みを生成する材料となり得るため、意識は自らに課せられた重力場の中で、新たな均衡点を模索できることになる。そういった「調節」としての言葉が責任という言葉をどう扱うかのヒントであったわけだ。
つまり手探りで探索し、自分だけでなく他者視点へと還元するためには微細な扱いを含む表現であったり、希少ゆえに腫物に触るような、また、そこに価値があたりするからこそ飛びつきたくなるような表現がパートナーとしてふさわしいと言える。
重力井戸の深さは蓄積された質量だけでは決定されないが、意識の自己参照性が生み出す奇妙なループ構造が、重力場そのものを歪めることには注意を払っておくべきだ。
また意識の自己駆動性はシステムの創発的特性として理解される必要もある。それは予め与えられた目的や方向性に従うのではなく、システムの内部で自発的に生成される力学である。この力学は、外部からの観察では捉えきれない複雑な様相を呈する。なぜなら、観察という行為自体が、システムの振る舞いに本質的な影響を及ぼすからである。
ただし、意識の位相空間における特異点の生成は予測不可能な過程であるが、決して偶然的な現象ではない。
特異点の形成には、システムの内部に潜む無数の微細な変数が関与している。我々はその全てを把握することはできないが、システムの振る舞いそのものを通じて、その存在を感知することはできる。
より実践的には、勇気をもって提言すれば、少なくともあなたの生むべき特異点はあなたの求めたい分岐点であり、それは求める分岐点を支配する上位の現象を目指して存在確率を高める予備動作を永遠に行うことである。もしそこに非科学的な、また、藁にもすがるアドバイスということでさらに助言を私がしなければいけないとすれば、その存在確率を導いた過程は無視し、導いた後の感情と完全に同期する訓練の時間を必ず毎日とることである。
その空間において、特異点の出現確率を高めようとする意志そのものが、逆説的にその特異点の性質を規定してしまう。
この逆説を受容することは、実は特異点生成の本質的な触媒として作用する。意識は自らの予測不可能性を予測しようとする試みの中で、むしろ予測そのものを超えた次元での確実性を獲得していく。