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信念を持った否定言動をしない人間は精神的に未熟か不勉強な存在である

人格否定の無意味さはもちろん、

相手からの相談や提案内容に否定の色を開口一番に出す人や

口に出さなくとも思考の中身は否定で混沌としているという人も含めて

精神的に未熟か不勉強またはその両方の併発をしているのが今の世の中の現状です。

しかも質の悪いことにこの手の人たちはそれが無意識であり、

排他的かつ他責思考であり、加えて日々その強度を高めることに精を出しています。

 

否定という行為は本来、

この世におけるあらゆる解を持つ人でないのであれば寛容の無さや

無知・不勉強をさらす点で恥ずかしすぎてできるはずのないことだと

認識すべき場面が多いはずなのです。

しかし実情として否定する人がはびこっているのは

ひとえにそれに気づけていないからと言えます。

 

例えばまずは考えてほしいのですが上に挙げた「寛容」という言葉についてです。

寛容度の高い人はなぜ寛容になれたのでしょうか?

いったんここで停止して自分ならどう答えるかを考えてみてください。

 

イメージの一例なので必ず以下の通りではないはずですが、

大多数の人がイメージするのではないかということを

私なりに想像して説明していきます。寛容を初めて聞いたよという方はすみません。

 

言葉とは性質や方向性といったイメージや意味が付随しているものです。

上記では「なぜ寛容になれたか」という質問でしたので原因を考える人が多いはずです。

おそらく「寛容」という言葉を聞いたとき

”何か嫌なこと・自分にとって悪いことなどを自分の身で受け止める必要があり、いった

んその経験を感覚として理解したことによって、同じ経験を受けたときに免疫ができ

ていて寛容になれた”という「流れ」と意味的にはおよそ一致しているといえるイメージ

をした人が多いと思います。(繰り返しますが一例なので違うイメージの方は気にせずそのまま読み進めてください)

 

この時重要なのが言葉には

矢印のように流れを無意識にイメージできる力があるという点です。

この場合の「寛容の矢印」は「負」から「良」のような流れに類するものとなります。

このマイナスからプラスの影響に流れたという無意識があなたの次に選び出す言葉を支配しています。

 

結果から言えば、この流れをイメージした人は

「なぜ寛容になれたか」という質問に対して

“負荷を受けて次の影響まで耐えられるよう成長したから・強くなったから”

というような出発地点の違いこそあれ少なくともプラスへの方向性で一致した表現で説明をした人が多いはずです。

 

しかし同時にこの質問の解答には

“負荷を受けて閾値が上昇した”

つまり「鈍化した」という一般的には「鈍くなる」という

マイナスイメージの流れで言い表すこともできますが、

両者の主張の結論である「寛容になった」という部分においては一致しています。

言葉で表現するから難しく聞こえるだけで以下の画像で説明されるように

 

Destination

 

進行方向に個別性があるというただそれだけのことです。

 

この例を見てわかる通り

私たちの想いや思考は言葉で紡がれる限り見えない方向性を発しているのです。

しかしその言葉の特性を理解していない人は表現が一方通行なので、

自分と異なる表現方法には不快感が生まれるのです。

ここでは深く取り上げませんがこれを

もう少し大きく解釈すると人間同士で起きている対立は

このような方向性の不一致が起きているからとも考えられます。

 

他言語を学習している人や、知見の広い人、それから目に見えない事柄について

よく考えている人は寛容度が高い傾向にあるように思います。

言葉は知ると知るほど矛盾に気づいてしまうものなのです。

そしてそのような事実に気づけると質問・問いかけに関して浮かぶ自分自身の解答は往々にして瞬間的に複数浮かんだり、

解答するためには質問の前提条件が不足しているのではないかという指摘も2~3案浮かんでいたり、それらがさらに複合していたりする中で最善を選び取るという行動の結果が普段の発言となっているのです。

場合分けが常に起こってしまうので、

たくさんの候補があることを潜在的に知っているわけです。

そうすると、多様な意見があることが前提になるので

そもそも意見が対立する確率も減りますし、

仮に対立した考えが提示されて不快感が発生するとしても

不快感より先に自分が思い至らなかった意見の発生の分析が優先されます。

なぜなら言葉はたくさんの方向性と解釈を持っていると知っており、

自分の至った答えがすべてではないと理解していて

同時にこれらを謙虚にわきまえているからです。

 

その人が導いた倫理的に正しい信念を持ち合わせて否定言動をとるのであれば、

この場合その人の哲学が生き方に反映したのではなく、

生き方が哲学に反映して美術的未来を生み出すために必要な行動であるため

納得することはできます。

そして多くの場合冒頭で挙げた無意識の特徴を持つ人々には

この方法は適用して納得することはできません。

なぜならそのような人たちの中においては、

自己に下す評価とは真偽を別にして十中八九正しいものと分類して判断するためです。

ここで注意したいのは私はこの特徴をもつ人が

世界から排斥されるべきと考えているわけではないという点です。

もし排斥したならば、現在倫理的に良いとされている考え方を支持する人で

圧倒的に埋め尽くされてしまいます。

どの立場をとっても大小こそあれその人自身からすれば正義であるわけです。

もし必ず白黒つける必要があるのならば、

多数決的には規模の弱い正義は敗北してしまう道理などわかりきっています。

この排斥方法では救われる人は1人もいません。

 

そして私は、必ずしもこの少数勢力は削られる運命にあるとは信じていません。

倫理的に良くないと現在考えられている思想があるとして、

そこに個人の背景が手助けすることで

「自身の絶対的倫理に従う倫理的に良くない正義」

が存在できる可能性を考慮しているからです。同様に

「自身の絶対的倫理に従う倫理的に正しい正義」

も存在するはずで、

相反する両者の共存があったとしてもそれは可能であると私は考えています。

母国語が支配する第1の脳の他に母国語以外の言語が支配する第2の脳が生まれたとき、

それらを監視する第3の脳が生じると言われているように

さらに上位となる包含関係がその両者が出会うことで生じると確信しているからです。

そして皮肉なことに、第3の監視下に置いては

優しさや暖かさなど色味が感じられる包容力による手段か

生産で生じた新たなる風がもたらす結果を待つのみであり、

気づけば破壊衝動や敵対意志や反発心は

少なくとも何らかの形で牙を折られ身を潜めてしまいます。

 

加えて仮にもし、現在の正しいことが悪に駆逐される道理があるのであれば、

正しいことはその寿命を終わらせ純粋な気持ちで悪に道を譲るべきなのです。

言葉遊びなわけでなく、

正しいこととは、正しいことをする正しさを備えるゆえに正しさを名乗れるのだから、

自身が身を引く正しさが証明されたのなら、

正しいこと正しいことをしなければならないのです。

抽象化した概念は、ありのまま人間そのものの形に帰結することなど

本当によくあるものだと思い知らされます。

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