バイオミメティクスは発想の宝庫である
※本記事はバイオミメティクスについてどういうものであるか語る記事ではありません。
日記に近いものですので参考までに。
(最初の方だけでも見てくれると嬉しいです)
普段から、陸と海の間には
まるで「壁」が存在しているのか
と思わざるを得ないくらいに対照的に扱われ、隔てて語られます。
この世界では、行動すれば、必ず答えが返ってくるということを学びました。
さらに、地球、もっと言うと宇宙の本質に基づいて行動すれば
正しい答えがそこにあるということは前から知っていたので、
これとあわせて今は考えるようになりました。
(無神論者です。と断っておかないと煙たがってしまう人もいる書き方してますが
読者様に世界の見え方があるように、
私個人の持つ見方だと考えていただければいいと思います。)
ところで、「バイオミメティクス」という言葉に初めて出会ったのは高校生の時でした。
英語の文章の中に出てきて、biomimeticsの訳が
「バイオミメティクス」だったために、
「バイオミメティクス」で再度検索し直したことを覚えています。
(バイオミメティクスに対応する訳語としては生物模倣技術が当たります。)
宇宙の本質を意識して見てみようとすると
この、生物を「模倣する」という姿勢は全てに対する
尊敬の念と秩序の点から見て妥当であります。
実は、このことに気づいてからの日々は
忙しさから、それを言い訳にして
心を清らかにした状態で世界を見ることができていませんでした。
町を歩く機会があり、その時に風に揺れる草と周りの景色から
気づくことができたことを共有いたします。
ステレオグラムの上位版という名前が相応しい
私たちの目にしている光景は、真実の一部でしかなく
また、面白いことに
誰一人として同じ意識経路や認識結果を示すことはありません。
結論がほとんど同じでも仮定・過程が違います。
同じ感じ方はありません。
ステレオグラムは2次元の立体視ですから、
現実の3次元に対してこの名前を持ってくることには多少違和感はありますが、
私たちが目に見える部分はそのままに、
人間だからこそできる
「心で観る」ことを合わせて、
現実世界では分断されているかのように思われていることに
「気づく」ことをして、真理を観ること、
つまり、頭の中で立体視することが、創造による「完成された真の景色」ということです。
陸と海についてはそもそも構成しているものや形状が
目に見えて違うので「同じもの」と感じる人は少数だと思います。
しかしここに、本質への入口の扉が眠っていました。
その時の思考について、記録と発信を兼ねて綴ります。
何気ない一瞬をいかに逃さず感じとれるか
最初はただ景色を流して見ていただけでした。
道の脇には一面の緑に小さな美しい青い花が点々とありました。
よくある表現ですが、風が強く吹いたときに
草の上部が揺れ、まさに海の波のようでした。
「海の波」と考えたときに
陸:海=3:7
と中学生の時に習ったことを思い出しました。
執筆時の今思ったことですが、
この3:7という分け方も地球を1つと考えている点で
かなり評価できる数字かもしれません。
続けますが、
歩いていた方向の向こうから黒い車が通り過ぎていきました。
その時
「深海って暗い(黒)くて水圧もあって、なかなか研究しづらいところで大変だな」
と考えていました。
そして、いろいろと繋がってきたのです。
以下、あくまで「私が」感じたことの一部です。
学問のみを信じて生きてきた人、
合理主義者、
許容範囲が狭い人は相いれないことはわかっていますので
その点ご容赦ください。
なお、私は学者・専門家ではありません。
揺れる原因に違いはあれど、海も陸の草も風に揺れる。
そこには生態系がある。草の波が刈れるならば、海の波も「刈れる」。
深海の調査は、陸を掘り続けたそこ(底)に答えがあるかもしれない。
青と緑は同じとしていい(万葉集、信号など→古代の文化・人の感じ方が正しいことの支持)。
現在、我々の目から見ても陸と海(水)が共生している
(と、言ったら語弊があるかもしれないが)
田んぼや水媒花には生物模倣の観点から良い可能性があるかもしれない。
などです。
気づきとは
人目にはくだらなく、大変で、無価値なアイデアにしか見えないものです。
ここで言いたいのは
発想の補助にはバイオミメティクスは最適なものであるということです。
上で述べたように、見方・感じ方は誰一人として重複しません。
それは、町に出れば自然全てがあなたの見方であるのと同じです。
ということは、次に世界へ貢献し、自分自身が成長をし、
周りを助けていくのはあなたの番だということです。