時間は無尽蔵に存在しているわけではありません。
私たちが日々前進していくためには後ろの時間を気にしすぎるのではなく、
集中して最後までやりきる方がいいに違いありません。
前提条件として、
毎日を健康で活力に溢れる生活にしなければ意味がありません。
そうでないとした場合、自分の存在意義を示しがたいからです。
物事に対処するにつき、
楽をすることは時に自分の存在を虚しくさせます。
だからこそ、生きている意味に価値を見いだそうとするように
頑張れることは次から次へとやっていきます。
そして、自分を安定的に保つ手段として
最も自身のDNAを奮い立たせることが
「行動」することになっていかなければなりません。
私たちが自己防衛として発する俗に言う「言い訳」とは、
本人がなんとなく自覚しながら声を発している時を除いて
言い訳だと気づいていません。
もう少し正確に言うと
後から振り返ると「言い訳をした」と気づけますが、
言い訳を発している瞬間は、
事実として言い訳をしている気持ち悪さは感じるものの、
言い訳をしている対象の「相手」への対処をする方に強く意識と緊張を傾けるため
その瞬間、その人は本来行いたい自分の姿ではないことを表面化させてしまうのです。
そういった意味で、平常ではないために
その瞬間の言い訳は事実であってもその人自身は偽の存在です。
偽の存在を真に受けて言い訳を咎める人が多いのです。
(その人の本質を取り違えているということ)
本当は当たり前のことですが
通常、自分自身は自分の行動に責任を持てる、そしてコントロールできる唯一の存在です。
こんなに簡単なことはありません。
どんなに自分が頑張ろうとしても
自分の行動を他者が全て決めてしまう事があります。
だから自分で自分のことができるというのはとても幸せなことなのです。
これを知れば、もはや自分のために時間が使えることは喜びでしかありません。
「時間がない」とは、事実なのか真実なのかが大事になります。
人生は日々の生き方そのものが常に平穏ということはなく
やるべき仕事をやりきった日こそ、
なんとなく平穏だったと感じるくらいのものです。
若い内の健康に対する気持ちと似ているでしょう。
気持ちと行動は一方通行で機能することもできますが、
本来は一方的でなく、相互に補完し合います。
気持ち・行動のどちらの側面から顔を出しても、
残された側面が後からついてきて、
最終的には気持ちに行動がのるか、行動に気持ちがのります。
こうして自分から学習、行動を推し進めてみるという人間本来の姿になっていきます。
「やらない」ということは、
やるべきことから目を背けているだけの話であって
暇なわけではないはずです。
都合のいい言い訳は、あくまで現状を示すバロメーターであって
その通過点に一喜一憂しても仕方がありません。
それでは、「やらない」と「時間がない」では
何か違いはあるでしょうか?
どう違うでしょうか?考えてみてください。
繋がりが見えてきますか?
時間が消失していく対象であるならば
それを受け入れるのか、受け入れないのかを決めるのは自分自身です。
私たちが普段行う活動は
「学校だから」「仕事だから」「家事だから」と
割り切れることばかりでしょうか。
残念で、残念で仕方がないけれども諦めるということも多いはずです。
それでも全て、毎回諦めなければならない状況ではない限りは
納得のいく理由にたどり着くはずです。
その重み付け・バランスは人によって違います。
本当は本題でないことでも、
自分としては一生懸命にやっているものは
その活動から満足感を得たいものです。
それぞれ置かれている立場が違うのです。
自分が必要でやっていることは、
他人にも同じように必要ではなく
同じように用意された時間でもないということです。
その意味で、様々なことに気を使いながら
一生懸命に取り組み時間を大事にするべきです。
しかし、どこまで気を遣っても
自分の思いの及ばない裏事情がたくさん存在しています。
だからこそ、とにかく時間を大切にすることが全ての防御策であり
自分ができる最大の取り組みなのです。
結局、自己分析ができなければいつまで経ってもやった気になって終わります。
きちんと意識し続けられるかが大切です。
ある意味こだわれるかです。
そして最終的にはとても時間がかかることを理解します。
時間がいくらあっても足りないことに気付きます。
単純計算ではたくさん確保できるはずの時間も、
計画と実行力とのギャップに気付きます。
それにもかかわらず、時間は容易に捻出することはできないのです。
我々は機械ではないからです。
日によって体調や精神状態から集中力も変わります。
それは仕事効率と仕事量を左右します。
明日何をするかという計画と同時に、今日何ができるか。
ベストを尽くし続けるしか時間の消失には対抗できないのです。