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無意識の動作に意識的嫌悪感を伴う直感は、その精度を外すことがない。我々の無意識的行動は深層心理や本能に根差しており、嫌悪感とは潜在的自己防衛反応の一部である。
肉体性の超克は、精神の純粋形態を顕在化させるための第一歩である。アンリ・ベルクソンは理性を超越する直感の価値を強調し、思考を一時的に放棄することで得られる深遠な洞察を示している。私は瞑想の正体を様々手探りで正しい表現に翻訳しようと試みているが、実際はなかなか難しく、唯一間違ってはいないだろうと思える側面での言語化の一つが「呼吸の微分を味わう」である。
直感が我々の理解を超越する真実へ導く可能性のある示唆であると気づくと、思考そのものを一時的に放棄することによって自己の存在を再確認するという逆説的な意味を内包する意識的アプローチが、自己の存在を確認するために存在する世の中の隠微な手法として活用可能であると気づく。
感覚の一人称の無視は、他者の視点を尊重するための重要な要素である。日常生活において、自身の感覚だけに基づく判断では本質的選択において誤謬を招くことが多いが、その分認識無視による責任逃れが自由にできる。「原初状態」の概念は、個々の感覚や利害から離脱し、普遍的な正義の原則を見出す試みであるが、感覚の一人称の無視が、実は他者の経験や感情の尊重に繋がる側面を含むことを認識した瞬間から、常に配慮と仁義をかけるかどうかを知っている人間として選択肢が提示された人生を始めることとなる。一度それを知った人間は、それをなかったことにするのが不可能であり、それ故ある意味不自由な人生を送る使命を背負ったことになる。事実として、その現象は本人が望んだ結末である。
しかし、摩天楼の中で不鮮明にその存在を浮き沈みさせる揮発的な国の住人となるための市民権がそこにはある。
これら三つの概念は、表面的には無関係あるいは僅かに類似しているように見えるが、実際には深く関連している。肉体性の超克は精神の自由をもたらし、思考の放棄はその自由をさらに深化させる。感覚の一人称の無視は、その自由を他者との関係性において実践する方法である。我々はそこから自分の底意に圧縮された真意と他者との間に連結的関係性を見出すことができる。
「現在」とは、最終到着地点の完了形であり、過去依存にまみれた産物の粘着的な観測結果でしかない。言い換えれば、持続と未完の観点から、自分自身のあらゆる事象の引き延ばしによって推移的に流動可能である。私がここで主張する意味合いとしては、「過去の連続性の延長上にある」という解答が、一般的な解答者としてはもちろん正解となる中で、この文章の主張で意図することとしては完全に間違っているということとなる。
この特殊な意味合いは、「精度100%のコンパイルを求めなければ意味をなさない条件下の文章」において「99.9%の精度のコンパイル」はただの別物であるということを指している。現在を固定されたものではなく、常に変化し続けるプロセスの一部として捉えることが必要であり、確かにその主張に真実が含まれることを認めつつも、実際は大した影響力はなかったことにする観測結果へ導くことができることも認め、過去は必ずしも連続的である必要はないというただこの一点に尽きる。プロセスの事実は、フローの足跡でしかなかったのだ。
何かを変えるためには前後関係の破壊が必要であり、それには既存の価値観や方法論を乗り越えるという事実が必要である。このよくある表現は、外殻のみ見れば進歩と創造の原動力であって、正体に迫れば、接近の場合にプロセスであるが発散の場合にフローとなる。現在を過去と未来の交錯点として捉えることで、持続的な変化と成長の可能性を見出すことができるが、無意識の動作が直感と結びつき正確な判断を導くことがあるのは、深層心理が現実の微細な変化を敏感に捉えているためである。個々の経験や学習が無意識のうちに蓄積され、それが瞬時の直感として表出することによる。前後関係の破壊は新たな視点や可能性を生み出すために必須であると同時にその崩壊方法には裁量が認められているが、人類のデフォルトは接近という呪いである。
現在の流動性を理解することは、跳躍的な変化に挑むための基本である。現在を過去と未来の交錯点として捉える視点は、変化を恐れずに受け入れる心構えを養い、常に新しい可能性を探求する姿勢を促す。
流動性の体感を会得すると、我々は新たな洞察に感動するかどうかというステップを省略、すなわち選択可能になる。究極的に、小さな科学の認識に対しては、これに反することが成されたとき、表面的に見れば現実的な側面に反したということになるが、それをさらに貫けば現実に即していないただ一つの正解に相まみえる唯一の方法であるという絶対的自信を不純なく体に治めているためである。科学と習慣の使用は、霞んでいる別の解釈の余事象の使用と同じであり、その手数料は感覚の鈍化なのである。