小さい頃の記憶というのは、
成長と共に薄れていく。
しかし、消えたわけではないということがふとした瞬間に思い返される。
脳の機能として、名称や役割は知識としてあっても
実感として自分の中に落とし込む話はまた別である。
私は7~10歳頃までは、
2~5年前の話を大人が話す時に
「随分前の話で覚えていないな」
という類の話が理解できなかった、ということを強く覚えている。
当時の私の感覚として、起こった物事や体験した出来事は、
あまりにも鮮明すぎて忘れるということが考えられなかったからだ。
言い換えれば、忘れるわけがないという感覚であったのだ。
その感覚は、15歳まで続いた。
この頃、「忘却」という感覚を、少しずつ理解し始めていた。
だから、私は
「できなかった頃の自分を忘れない。絶対に思い返せるようにする」
と自分自身に誓うようになっていた。
16歳にして、だんだんと4~6歳頃の記憶は思い返しにくくなっていた。
自分自身に立てた強いはずの緩かった誓いは
日々の多忙さを理由にだんだんと破られつつあった。
私は、小学校の卒業アルバムに映る同級生100名以上を写真記憶していた。
18歳の頃、一部写真は再生できなくなってきていた。
20歳を迎える頃には
15歳までに起こったであろうエピソードは
言われるまで思い返すことは難しくなっていた。
そしてそれから数年、
昨日食べた夕ご飯やひいては今朝食べたものは
すぐでてこなくなった。
家族に聞いた物事や質問したことは、1分後にもう一度聞くこともある。
質問した事実はまだ覚えているが、何と言われたか記憶にとどまっていないのだ。
単に集中していないだとか、あまり興味がない状態で聞いていることが多いということもあるが、それにしても昔からすれば考えられない話である。
記憶はどこに行ってしまったのか…
消えてしまったのだろうか。
私はアロマテラピーが趣味であるが、様々な香りを経験していく内に、
「この香りを知っている」
と一瞬告げられた感覚になることがあった。
アロマだけにかかわらず、
雨の香りやガソリンの香り、すれ違い様の人の香りや、
外での一瞬の香り、炭火の香りなど刹那的感情を呼び起こすことが
日常では多々存在している。
私の場合、閃きがあるか、余程強烈なモヤモヤを感じたために熟考したとかでない限り
香りに関しては気に留めることは少ない。
ただ、そこの感覚には、
私の過去が存在していた事実を教えてくれているという証明となる。
昔の体験について忘れていて思い出せないとしても、
写真を見れば、そこに私の過去があったことを思い出せるし、
これもまた、存在の証明となる。
音楽は、強烈である。
耳にその波動が伝わると、半強制的に音楽を聞いていた時にした行動、
感情や思考までも3次元的に頭に描きこんでくる。
アロマや、その他香り、音楽や写真など、
状況から見てこれらはトリガー(引き金)である。
私たち人の記憶や思い出はこれらのトリガーで何度でも復活する。
これらを大切に、できれば忘れないで寄り添いたいと思うのは人情だと思うが
記憶や思い出とは、自分自身の人生史、歴史である。
自分の人生という歴史を忘れてしまうということは、
費やしてきた時間を、命を、失ってしまうという感覚に近いのではないだろうか。
しかし、ここに恐怖という感覚を登場させることは間違えている。
自分がしてきたすべてのことは不滅であり、
意味あるタイミングで必ず復活を遂げるからである。
そこから考えるに、結論はただ一つなのであるが、
学術的でないだとか、宗教的だとか、詩的だとか
つまるところ、神のみを信じている人や、
逆に神はいるはずがないと断言するような方たちには伝わらないから言いにくいのであるが、
私が本気で感じたことであるから思いのまま綴る。
多岐に渡る複雑な命題ですら、答えはシンプルに回帰することがほとんどである。
つまり、私たちの記憶や歴史の保存場所は、脳ではなくすべて世界がもっている。
(※解釈:トリガーは周りに存在している自然や環境がすべてをそろえていて、必要な時に私たちに気づかせてくれる。)