言葉が人を動かす時、その人にとっては大きなダメージや傷跡を残していきます。
そういったいわゆるコンフォートゾーンを出ざるを得ないような、
または出なくてはならない気がするような状況やきっかけというものが
今の自分の状況を動かしていきます。
純粋にやりたいことを見つけるべきだと信じてから時間が経ち、
やりたいことが「見つけられない」という思考を抱く人にはまず誤解があって、
おそらくその背景には相対的不幸を潜在的に感じているという根本原因があります。
相対的不幸は感じていても幸せと感じながら生活することを選択することができます。
相対的不幸の本質は思考の最終着地地点において感覚の割合に問題があると言える点にあります。
つまり感じている過程で相対的不幸を察する瞬間があっても、
最終的に下した結論が能動的な気持ちに基づく幸福観の獲得によって
終わっているのであれば幸せの軸は独立することになるということです。
日や気分によって幸せに感じたり、不幸に感じたりという変動が大きい人は
軸になるこの2択について絶対的な深さまで自分自身と向き合ったことがないから
幸と不幸の行き来が起きているのが理由と言えます。
ここからわかるように、本当に自身の状況に不満を感じることがないのであれば、
言い換えると相対的不幸の結論を感じないのであれば
現状のやりたいことを見つけられない自分も含めて
受容することができていると言えます。
逆に言えば真の気持ちを受容できていないから別の表現で変装しているとも言えます。
実はこの手の人たちは
この不幸感に気づけていないケースがほとんどですが、
構造としてこの感覚はとても大きな割合で気持ちの占有領域を奪っています。
やりたいことを見つけられず潜在的不幸を感じていると頭で思っていたことは、
本当は自分が幸せな境遇にあると気づいていながら
認めようとしていないことを続けていたというのが誤解の真の姿であり、
そこから得られる結論は、その事実を認識すべきであるということです。
現状、追い詰められ仕方がなく、そして打破しなければならないほど
ひっ迫した環境でないといういわば恵まれている状況にいることについて
無意識に感謝せず日々を過ごしているのが今の状況です。
口では言っても実際には心から本気で見つけたい、行動したいとは思っていません。
まずそのことについて慎重に、客観的に受容する必要があります。
不幸と幸福は同居可能です。そして最終支配も選択することができます。
ここまでやりたいことに焦点を当てて説明してきましたが
実はそれだけに関わる話ではなく、
これは自分自身の生き方に関わる話だということが分かってきます。
なぜなら方針が決まってくると生き方もそこに従ってくるからです。
幸か不幸かの選択を決めかねたまま今の時を生きる選択をし続けるということは
やりたいことを決定づけることを延期して生きているのと同義でしたが、
やりたいこととはつまるところ主観であったり、自身の使命感であったり、
すべての主語はまず「私」にあります。起点が私にあるのです。
ということは、
「私」の進む道を常に他人であったり、その時の雰囲気であったりといった
外部要因にゆだねていることに他なりません。
そこを決めて初めて人としての本質的な生が始まるのであり、
決めるまでは常に自分の体を支配しているのは
自分の体を勝手に操って遊んでいる偽物と同義です。
人生は積み重なりであり、複利の面があります。
昔から積み上げてきたものは必ず威力を発揮していると
納得できるタイミングが来ます。
どんな小さなことでも積み上げて種をまき続けて10年たった人と
積み上げなかった人との間において、
後悔では埋めきれない絶対的な距離と壁ができています。
しかし一方でどんなに小さいことでもなんでもいいかというと、
(世の中で必ずと言えるものが少ない中で断言できるほど)
よくないと断定できます。
ここにある答えとは、
本当に大切と思えることを優先しなければならないという真理につきます。
ある年を生きる中で過ごす12カ月という区切りは、
翌年に体験する12カ月の重みとは格が違います。
人生では複利の側面があるということは、
元をたどると積み重ねたものが増えるということです。
増えたものの中には、何もない側に発生するであろう義務とは異なった種類の
義務や守るべき恵が増えるということであり、
守るべき恵は意識をかける対象に成り得ます。
その分もちろん自身の時間を捧げることになるでしょう。
それに加え時間というものは、
その経過に連れておよそ圧縮されていき、単位時間当たりの価値は逓増するのに対し
人間の意識によって成し得る単位時間当たりの生産価値は
逓減しがちになっていきます。
永遠に時間があるか、時に対して圧倒的に成果のある体験をできるノウハウを
自身で獲得している自信があるのであれば、どんな小さなことでもなんでも
めぐってきてくれたチャンスの順にこなしていけばよいと思います。
しかしリミットが決まっているか
または時に対する有効的な対抗手段を発見できないのであれば話は別で、
優先順位をつけていくことがどこへ終着するか予想しづらい人生というものを
短期的には修正する手段の一つと成り得るわけです。
自身の人生の方向性を導く潜在的幸不幸を決定した先に、
ブレない軸を創り上げることができるとそこに真の歩みが生まれます。
この真の歩みの先には外部要因によらず全ての責任を選択できる権利が待っており、
振るう先は自分でも相手でも自由です。
人生と残された時との関係に思いを巡らし、
優先的で必要な小さなことを積み上げることが
人生の複利の側面を支配すると知ります。
そしてこれらを思い起こせば主体である自分自身が
「やりたい」と信じた1番のことしかもう残っていません。
最後にやるかやらないかが残った時、やるなら進みます。
やらないならもう一度自由と責任と権利を獲得した選択肢に戻ります。
自分自身の、特に嫌な感情と向き合うことは本当に骨の折れることです。
物事においておよそ全ての解決方法は自問自答し身を切り、
無意識領域を意識下にさらす努力によってだいたいのことは解決するものです。
近道はありません。