「能力差は環境差に影響がある」ことは満場一致で疑いようのない真実として広く認知されているであろうが、「能力差は環境差である」というように文末が少々変化した場合のこの命題は、あなたならどう思うだろうか?
今回はここからスタートしていく。
私は能力値を特別高く持って生まれることができたわけではない。
譲りに譲ってひいき目に解答しても中の上で限界である。
ひいきの内容に関しては、今できないことでも7回から10回本気で試行すれば多少マシな結果を出せるということを「知っていて」かつ「大変でも何とかできるようになりたい」というような気持ちで生きていて、そして何より一応頑張ろうと思えているので、そのように思えない人も世の中にはいるという点から消去法で自分のランクが自動的に上がるという判断を基としている。
劣等感と克己心を両手に抱えながら目の前に見える絶望と、そのはるか先にいる能力値を持つ人との断絶を察しながらもいつかは並んで超えてやるという気骨と純粋な好奇心に力を託して、少なくとも今、自分のいる位置よりは少し進んだところに向かえるように改善している訳である。
お察しの通り、私は「能力値は環境差に影響がある」ことは同意しつつ、
「能力値は環境差である」ということに関しては断固反対である。
私は高い確率で知り合いになったばかりの人には「いろいろ知っていますね」「なんでも頑張って素晴らしいですね」とお声がけをいただけることが多い。
これは素直に感謝の念を思うわけだが、もしその声掛けをした人物が日頃から努力を重ねず、自身の不遇を嘆き、未来に悲観しての発言であれば意味はガラリと変わってしまう。
それは、私自身必死で這い上がろうと未来を見続けてきたからというだけでなく、今もなおできないことをできるようにしていきたいと強く思いながら昔とはまた違った形で這い上がろうと日々もがいているという、沸々と煮える想いが沸き上がってきてしまうからだ。
日々のコミュニケーションでは上のような程度の会話では実際は目くじらを立てることはない。しかし負の感情を携えた言葉を発する人たちは、似たような人の元に集まって自然とその類の言葉で彩られた会話が発生するという迷惑な音源を形成する。
質の悪いことにそのような音は無視しようとしても偶然「聞こえてきてしまう」こともある。
この時、正直なところそんなことをしても仕方がないのだが、はらわたが煮えくり返る感情に襲われることがある。
この単純なる原因はただ一つであり、
「嫌なら変えろよ‼本気でもがけよ‼」
という反骨心からくるものであり、
人生の有限性を考えず、ただ現状に甘んじて愚痴をこぼしているという
さらに悲愴な未来を導く努力をしていることが不憫でならないからである。
困難を覆していく過程で遭遇する沈み込みや悲しみは、今は想像しえない幸福感に満ちた明るい目標到達点までで総括した推進波の中の修正波でしかない。
何かの真実に近づこうとする際に、本当にミスをしたくないという思いがあるのであればすることは一つであって、それは必死に自分の頭で考えることである。
ただの推測はどうやっても博打要素が抜けないが、緊張を伴った本気の推測は、限りなく本物に近い推論を経て真実という極限値に至ることができる。